なったから、それだけ平均が恢復してきたのだというお医者の説です。口の妙な感じは左のすみに残っているだけです。意識が恢復してくる過程は大変面白くて、決して通俗小説に書かれているような段々夜が明けるような調子のものではないことがわかりました。真暗な中にローソクの焔のような一、二点の明るいところが出来てその部分だけがはっきりとして後は全部暗いまんま、そういう点が少しずつ増えて行ってやがて互いに連がって一日の大部分がわかった状態として現われてくるので、意識が戻った後も始めの内はまるでわからない記憶にない事の方がどっさりです。一番始めの明るい点に映ったのはお医者様の顔で、親みのあるその顔は小さい小さいミニチュアールの様にみえました、昏睡をしている人間というものは大変人間離れがしてみえるそうです。そういう体の中で命と死とが微妙に交流していた時期の話は自分の今日の命の伝説時代で、珍らしく聞きます。看護婦を厭だと夢中で首を振ったそうです。

 (三)[#「(三)」は縦中横]でも今は正気だからそんなわからず屋は言わないで頼む事にしましたが、さて、人がなくて昨日は待呆けました。寿江子とこの間一寸お使いに行った娘さんが代りばんこに大奮闘ですが、まだ自分では何一つ出来ない人を世話するのだから、心ざしはいじらしい程ですが素人ではヘバリ方がひどくて気の毒です。『寡婦マルタ』は家にあった筈ですからみつけてお送りします。本が不自由でなかったのは幸せでした。北氷洋の流氷の上で科学的実験をした人達の記録などは随分面白く読みました。最近『微生物を追う人々』という世界的な名著の翻訳が出ましたからお目にかけましょう。私は今寝床の上に仰向いてこんな話しをしているところへ寿江子が足許にヘバリついて涼しくない光景です。昨日から少しずつ「ピーター・シンプル」を読んでもらっています。この話は寝て読んで貰って聞いたりするのにふさわしい話で、私は恐らくこれから先何ヵ月もこうやって本は読んで貰って、書く事は書いて貰ってやるしかないでしょう。今日は長ものがたりになりました。

 八月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 藤島武二筆「屋島山上の展望朝霧」(一)[#「(一)」は縦中横]、梅原龍三郎筆「朝の仙酔島」(二)[#「(二)」は縦中横]の絵はがき)〕

 (一)[#「(一)」は縦中横]十九日、今日は写真有難う御
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