だけで、差し向いな習慣のついている者には、一つの苦痛に近い感じです。文学の仕事と云うものが、どんなに心情的な過程を持っているか、と云うことを改めて感じます。小説がこう云う方法で書かれようとは一寸思えません。それにつけ、ミルトンだの馬琴だのと云う人の仕事した骨折りが、実に考えられ、特に馬琴が、あの時代の特別に学問もなかったお嫁さんにあのコチコチな漢語を一々教えながら、書き綴って行った努力は日記に書かれている以上だったでしょう。でもあの人達にはまだ書けたと思います。何故なら、ミルトンは、ああ云う観念の世界に自分を封じ込めて、其処に君臨していたし、馬琴は矢張りもっと卑俗な程度の道徳感と、支那的な荒唐性に住んでいたのだから。我々の文章そのものに対する感覚から云って、書いてもらって書く小説と云うのは、いかにも出来にくそうに思えます。スエコは、それでも、私がもしすっかり視力を取り戻さない時の用心に、だんだん馴れてゆけばそう云う物も書けるだろうと健気に申しますが、今もこの手紙のなかで、沈黙の「黙」に八つ点ポチが付いてしまったと云って、さながらペンは恐しい自動力をそなえているようなことを云う始末ですから、私として親切に対する感謝と、実際上の見透しとは、必ずしも一致しないのは無理ではないでしょう。恋文の代筆が喜劇のテーマになることは、これとは一寸違うけれど、何だか思い合わされるような処もあります。
 今度は前から持っていたプランに従って、古代から近世迄の女流作家の作品を読もうと思って、万葉や王朝時代の人達の物を幾らかまとめて読んで、色々と面白く感じました。万葉の女性達は和歌の世界へユーモアさえ反映させていて、そう云う生活のあふれた力が雄大さや無邪気さや、強い情愛となってあふれていて、その時代の女性ののんびりと丈高かった心の動きが、気持よく印象されました。斎藤茂吉の『万葉秀歌』上・下が岩波新書から出ていて、それで読みましたが、御らんになる気はないかしら? 紫式部と云う人は、矢っ張り立派な小説家だと思います。よく云われる悪文家だという評判はもっともで、ところどころ眠ったまま書いて行ったかと思うほど、抑揚のないダラダラ文章の処がありますけれども、それはたいてい具体的でなく、わざとぼんやり何かを仄めかそうとしている時で、例えばあのみにくい末摘花の哀れな姿を描写している場面や、玉鬘と養父の光君
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