年にはケーテの二男が戦死しています、五十八歳頃に、その後に(一九一四年)ひきつづくひどいドイツの生活の中から飢えや失業、子供の死を描き出しています、私のもっているのは主としてこの時代の作品が集められているのね。ケーテは実に女と子供と父としての男の生活に敏感です。グロッスより時代的には前の画家だそうですが、グロッスよりも遙にリアルな作家ですね。勿論グロッスは諷刺画家だけれど。
『アトリエ』ではフランスのマズレールとコルヴィッツとグロッスなどの特輯をやるのですって。マズレールの人の一生という極めて面白い版画本があります、それから『都会』という大きい本も。
 同じこの雑誌に藤島武二の絵、藤井浩祐の彫刻など出ていて、何だかびっくりする位ね、下らなくて。
 この時分、中川一政はまだ若い画家で山塵会というものをつくったりしていたのね。(昭和二年ごろ)
 明日あたり図書館へ行って魯迅全集を見て、ケーテについて彼のかいているもの[自注1]をしらべましょう、なかなかたのしみです。

 お早う。けさはいかがな御機嫌でしょう。いい気持? 机の上の桜草が、たっぷり水をもらって、こまかい葉末に露をためながら輝いて居ります。私はしんからよく眠り大変充実した気分よさです。ゆうべはすこしかげになった同じようなあかりのなかで、おくりものへ頬っぺたを当てているような心持で、お風呂から出てすぐ寝てしまいました。きのうはいい日だったことね。いろいろと心をくばって下さり、本当にありがとう。
 あれからね金星堂へまわり、高山へまわり、銀座へ出ました。咲枝が三十三になったのよ女の厄年と云われていて、きっと咲枝心の中では気にしているのでしょうからいろいろ考えていて、ふと栄さんから帯を祝ってやるものだときいたので、銀座の裏のちょいとしゃれた店へ奇麗な帯を注文してあったの。それは十八日に出来ていたのにとりにゆけなかったのです。それをもって、ひどい混む電車にのって、余りひどく圧されるときフーと云いながら林町へまわりました。咲枝大よろこびの大よろこび。私はその様子を見てうれしかったわ、自分の心のたのしい日に、ひとのよろこびを与えてやるのもうれしいというものです。食堂がもとの西洋間に移ったことお話しいたしましたね。あの大きいサイドボールドがやっぱり引越して来ているので、咲枝その鏡に帯をうつしてみてしんからよろこんで居りました。
 太郎にとってもきのうは特別な夕方でした。それはね、区役所から、千駄木学校(あすこよ、動坂の家のすぐ裏の)へ入るようにと云って来たから。僕千駄木学校へ行きたいと思ってたから丁度いいやとよろこんで居りました。
 その太郎のために私は近所で木綿の靴下を見つけてやって、一年生の間と二年生との間はもつだけ、ああちゃんに買ってやったのよ。あっこおばちゃんもなかなかでしょう?
 寿江子に云わすと、太郎は何でもこれこれはこういうものという型通りが好きすぎるそうです、でもそれは父さんが全くそれ趣味だから今のところ真似でしょう。今にすこしは変るでしょう、利口は悧口よ。なかなか可愛い息子です。四月十日からですって。近いから心配なくて何よりです。何を祝ってやりましょう、あっこおばちゃんのおじちゃんというお方は何がいいとお思いになること? いずれ御考え下さい。二人でやりましょうよ、ね。太郎はぼんやり覚えて居るのよ、あっこおばちゃんのおじちゃんを。眠くなって九時すぎかえり、そしてたのしい晩を眠った次第です。
 ときどき思いがけないボンボンを見つけたりして話しますが、きのう銀座の方で、私は何とも云えない見事な花の蕾を見たの。飾窓の中におかれていて花やでなかったから手にさわることの出来なかったのは残念ですが。蘭の一種かしら。大柄な弾力のこもったいかにも咲いた花の匂いが思いやられる姿でした。ほんのりと美しくあかみさしていて。自然の優雅さとゆきとどいた巧緻さというものは、おどろくようなときがあります。この頃温室の花は滅多にないのよ、石炭不足ですから。本当に珍しく。花の美しさって不思議ね。決して重複した印象になって来ないのね。描かれた絵だと、何か前にもその美しさは見たというところがあると思うのですが。花はその一目一目が新鮮なのは、実に興味ふかいと思います、それだけ生きているのね、溢れる命があるのね。そういう生命の横溢には、きっと人間の視覚が一目のなかに見きってしまえないほど豊富なものがひそんでいるのね。こんな小さい桜草でさえ、やっぱりそういうところはあるのですもの。蕾がふくらみふくらんで花開く刹那、茎が顫えるのは、思えばいかにもさもあることです。蓮の花のひらく音をききに夏の朝霧の中にじっとしていた昔の日本人の趣味には、あながち消極な風流ばかりがあったのでもなかったかもしれません。花の叫びと思えば
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