迄困ったの、つい忘れていたりしたこと。何と笑えて、たのしいでしょう。このことの中には大した大した宝がひそんでいたわけだったのだと思います。だって、もし非常に親密な、非常に全体的な信頼で心がいっぱいになっているのでなければ、そんなことは寧ろおこらなかったのですものね。そういう極めて全体的なゆるがないものが、自覚されるより深い本然なところに在ったことが、火起しの物語をひきおこし同時に、今日をもたらしているのですもの。天才的に更に多くのものが具体的な内容としてもたらされてはいるのだけれども。
ああ、あなたにとっても益※[#二の字点、1−2−22]面白い小説を次々と書きたいと思います。
この間うち道々よんでいる小説は「話しかける彼等」という訳名、原名は「心は寂しい猟人」The Heart Is a Lonely Hunter というので、二十二歳のアメリカの女の作品です、なかなか面白い。一九三八年の南米の工場町での生活を描いていて、バックのこの間うちよんでいた「あるがままの貴方」などと対比すると大変面白うございます。よみ終ったらお送りして見ましょう。「あるがままの貴方」は「この心の誇り」の人を理解する限界としての輪の論ね、あすこからかかれているものです。そして何かやっぱりあの輪論が私におこさせた疑問が一層深められます。あるがままのその人を理解する、うけいれるということが一般性で云われているから。あらゆる人物間の事件が、その肯定のために配置されているから。このことは、バックにとって芸術の一つのスランプへの道を暗示するいくらかこわい徴候ですが、バックはそれを心づいているでしょうか。文学の世界の交通ももっと自由だと、たとえば『エーシア』だの『ネイション』だのに日本の一人の女の作家の批評ものって、バックはやはり満更得るところがなくもないのでしょうのにね。何と互に損をしていることでしょう。
ケーテ・コルヴィッツの插画のことでアトリエ社の人が来ての話に、百五十人ほどの人から、十人、明治画壇の物故した記憶すべき画家をあげて貰ったのに、一人も婦人画家は名をあげられていなかったそうです。画は大変おくれているのね、その理由は何でしょう、文学は苦しんでいる若い女の心が直接ほとばしって表現し得るのに、画は従来、そういう表現としてみられている伝統がないからなのね。純文学というより以上に純粋絵画
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