どうあろうとも、ということについて。くりかえしよみ、くりかえし様々の感動にうたれます。今日このことを自身に即してどれだけの人が感じているでしょう。文学の正当な成長の問題として。比重はどうであろうとも、ということは、二つの流れとして見られず、何だか一人の人たちの内に、そういう見かたがさけられず求められるようでさえあります。いつか書きましたっけか、『はたらく一家』の著者が広津和郎の序文を貰って、その中に、その作家の歴史に対して臆病なのも庶民性の一つであると書いてくれた序文のせて、その作品集を出したということ。現代文学史というものは、こういう悲しい喜劇を示します。そして、そのような歴史上の大きい現象をちゃんと文芸批評の上でとりあげにくいということ、「分身」についていつか私の疑問かきましたでしょう? あれもそうだわ。十五日のお手紙に、成長するために知性のめぐり合う風波の図景は、と思いやりについて云われているところ。ほんとうにそうです。
しかし、そうであればあるだけ、私たちはちゃんと文学を把握しなければならないと思います。厳密に考えてみると、少なからぬ人たちが、不便な事情というもののために舌足らずにならざるを得ないということを自分に許すことから、(云いかたがまわりくどからざるを得ないでいるうちに、)いつしか、先ず根本的に健全に現実を把握して行こう、或は行くということを忘れ、その感覚を鈍くされ、つまり風化されてゆくというのは、何と恐るべきことでしょう。
このことは本当に微妙で、そしてあぶなっかしいことです。例えば、現在の奇妙な文学論――政治の優位性、というのだそうです。――に対して、芸術至上主義さえ単純に否定は出来ないと、『現代文学論』の著者などしきりに云っている。それはそうです。しかし、芸術至上主義をそれなり肯定すれば、おちゆく先は、経来ったところを見て明らかなのですから、やはり「人間性一般」的あぶないところに落ちこみます。
ね、私は箇性の持味で文学を解決してゆこうとはしていないのよ。そのためにバタバタよ。ですから、十四日のお手紙にある、完成や典型についてのこと、実に面白い。ヒューマニストに還元することに対する抵抗の示されている、あの十四年間の見かたの土台は肯定されていてうれしいと思いました。そしてあれは「現代文学の十四年間」とされる方がたしかにようございますね。高山の
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