逆な感じを受ける気持や場所やを考えると、妙な気がします。文壇的知識人というものが、歴史的な知識人としての皮膚の新陳代謝をおくらしてゆく過程が――そして其はやはり現実の、或は目の前の身すぎ世すぎからの敗北として、同時に自分自身の旧いもちものへの敗北として――こんなに明瞭に示され感じられるというのは。
ほんとにこれはいい手紙です。
新しい文学が潮流としての存在をなくしたことについての考えかた、そのもののつづきとして「形式と内容」がとりあげられているところがあります。過去の業績の正しい評価を示さず、かかれているということは、云われているとおりですね。
そして、筆者は、この「形式と内容」が、作品の内部関係でより展開されていないままになっているところから、次第に二つが分裂して其々の云いのがれ的文学傾向となってゆくことに対してあれをかいたのでしょう。「人間にかえれ」が、生産文学・農民文学などのバッコに対してかかれたように。「対象としての文学現象が論理的分析はされても歴史的分析、対象の基礎の分析が不十分なこと」これはまことに真髄にふれた言葉です。一人のひとについてだけのことでは決して決してないと思います。
そして、更に思えるのは、論理的分析は論理の方法を知っていれば出来ることでありますが、歴史的分析はもっとその人の身についた歴史的なもの、歴史的生活力の底からしかほとばしらないということ。従って、論理的分析は頭脳的に作業され得ることになり、実生活との分離のままに行われるところがあり、そのものとして一種の形式論理になってもゆくということ。これらは、あの論文の筆者が、評論だけをかいていると人間がよくならない、小説をかかないと云々と云ったとき、私は、変で、それはそういう人もあるだろうと答えた、その機微にもふれています。私は永い間そのことが念頭からはなれず、何故と云えば、私は自分が評論のようなものをかいて、人間がよくならないと思えないし、そんな妙なことがあり得るかと思っていたので、しかし、こういう二つのもの、論理的分析と歴史的分析の関係が、はっきりつかめなかったのでした。
私の疑問であった多くのことが、この二つのことで腑《ふ》に落ちました。これは種々の点からあなたが思ってもいらっしゃらないようなキイポイントとなって、私に周囲の事態を理解させます。
私には、自分でその二つの関係が
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