北の一つの形です。
 私は作家として、ひろい視野がある故に身を狭めざるを得ない車善六的感覚と、今のところ(今日迄)「朝の風」のような面でとりくんで来ているのですが、それはあれとは全く反対で、ああいう旋風的突然の完成に自身を捲き立ててゆけないから、正攻法で、従って、サムソンののびかかった髪の毛みたいな苦しいみっともないところがあります。〔中略〕日本の文学史が遠くない昔にさしていた拡大された生活者的我というものを、私は馬鹿正直に追求してゆきます。そこへ自我を解放しようと願います。それは単なる作品のテーマにとどまらず、日本の文学のテーマであり、作家の生涯のテーマであるものだと思いますから。
 ああ、どうぞどうぞたのしみながらぎろりぎろりとして頂戴。血路というような性質のものをもとめず、私はやはり行くべき方への道をゆきたいわ。血路というそのものが、文学として、やはり作家個人の範囲の印象です。そうではなくて? 十一月号の作品の批評を都に四回ほどかきます。もう度々いやでことわったけれど、今度は思い直してかくことにして居ります。書くモティーヴは、この数ヵ月間の文学の動揺の波をとおして各作家がどんな自身の道を進めているか、例えば火野が妙な河童物語と極めて幻想的懐古の作品をかいている、そのことと兵隊ものとの間にある時代と文学との問題をみるという風に。平野という人は、目の前に出ている作品だけ云っている、この場合も。河童への興味の一貫性というものが私にはやはり感じられます。芥川の河童、碧梧桐《何とかいう俳画家》[#「碧梧桐」は罫囲み]の河童。日本の河童とは果して如何なるものの化《け》で、いかなる時代に出現するというのでしょうか。そういうことをかくのです。いろんなこんなこと考えているから、清潔なギロリの心地よさ! 日本文学における河童(特に近代の)は、決して噴飯ものではないのよ、そうでしょう? 私のかかる野暮は尊重されてよろしいものでしょう? 日本文学に河童が登場するとき、そこには何かの悲劇があるのですから。
「昭和の十四年間」へのサーチライトはまだ輝きませんね。それはいつ閃くのでしょう、たのしみだと思い待たれます。たとえば、このお手紙に云われているシェクスピアの女の歴史的なつながりの点ね、かきながらもうすこし詳しくかいた方がいいなとちらりと思ったところだから、私には、そこへギロリが焦点を
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