ナしたろう。家の中に足音が大きく響くようだったり、子供の声が響いたりして、雨戸を引いたところもあったりして。あの辺の砂や道やを何となし思いやります。私はなかなか立体的に思いやるのよ、何だか分らないけれどもほんのりとしたやきもちもこめて。心持のいいやきもちもこめて。そんな気持でこうやって葭戸のかげであなたへの手紙を書いている、この雨の日の風情もなかなかすてがとうございます。濡れている梧桐の葉かげに小さい光がチラチラしているようなところがあってね。
 ちょっと舌の上に、一つ追想のボンボンをのせてあげましょう、雨の音をききながら味うおやつのために。私はこっち側に坐って、それを眺めて、眼のなかが爽やかなような心持で笑いながら、どう? 美味しいこと? ときいているそんな心持。大変インティームな心持。
 夏のかーっとしたような、あけっぱなしな汗一杯の季節の終るころ、こういう雨の日があるなどと、なかなか自然も洒落て居りますね。
 きょうは熱いかがでしょう。お大切に。きょうの手紙はパラリとした手紙。詩のようなものは紙に余白をもって刷りますからね、では又ね。

 八月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十三日  第八十一信
 降りそうなお天気でむしますこと。御工合はいかがですか。今日は咲枝が十日ぶりで病院からかえる日なので、朝からいろいろと忙しく、三時すぎやっとうちへ安着。
 泰子にかける蚊帳を私たちのお祝としてやる筈のところ、出来合が寸法合わず。さりとて、きょう蠅をとまらせてはおけないので、ふと思いついて、お膳の上にかける紗の布をかいました。それに桃色リボンをちょいと結んでつけて。そんな準備してから病院へ行き、かえりに団子坂の途中にある菊そばの前のお産婆さんのところによって、明日からお湯つかわせに来ることをたのみ。
 下で太郎が、すこし赤坊にやきもちやいた声で甘ったれているのが聞えます。ああ、ああ、これで無事に父さんと太郎とをひきついで大安心です。月曜日に栗林氏行きませんでした由。何か直接の関係のあるところに起ったらしくて、大分せかついて居りました。
 火曜日は只行っただけでした。出る筈の人はリョウマチの由。あれはいつでも痛くなるものだというような話でした。きょうは月曜日のかわりに行ったろうと思いますがどうでしたろうか。夜になったら電話かけて見ますが。
 製本屋は一番早いところということでたのんであります。すこしお待ち下さい。四冊が一冊では厚すぎて不便ではないかと思われます、専門家が見て、不便そうならば二冊にいたしましょう。
 さて、これで咲枝もかえって来たわけですが、私は先の手紙に書いたように、九月の初めの仕事が一かたつくまでこちらに居るつもりです。丁度忙しくなりかかって、かえって又たった独りは閉口ですから。この十月から、三十五歳までの人を雇うに大臣の許可が入用となります、女中さんもそのうちに含まれます。寿江子が八月のうちにかえるそうですから、あのひとの都合もよく相談して、これからの暮しかたを考えます。私は一人の暮しは望みません。いろいろやって見て結局そう思いますから。ねえ、私たちの本質的なたっぷりさというものをなみなみと現実に活かした暮しぶり、簡素で活々として、勤勉で、淋しさを感じない生活をつくりたいと思います。それにはなかなか工夫というものがいります。何しろよく話題にのぼるように、常に次善的なわけですから。でもユリはまめに工夫して、その次善的なものをも、私たちの本質的なたっぷりさをうつすに足るものとして、つくって行きとうございます。
 明日は『婦人公論』のために、友情について二十枚ばかり書きます。『中央公論』に天野貞祐という新カント派の先生が、よい友情にめぐり会うことは運命的という風に云って居ります。人間の交渉のなかに生じる極めて複雑な、有機的な必然のあつまりが結果する単純さというものは、生活的なものなのね、哲学ではつかめないところを見れば。女としての私にある一すじな心、それは一見何という単純さでしょう。まるで近松が描いたリリシスムのようでさえあります。しかし、その一筋にこもるものの複雑さの比べるもののない条件はどうでしょう。その複雑さの隅々までを知りつくし評価しつくしていることからのみ生じる全く揺ぎようのない単一さ。これは実に面白い味いつきぬところですね。ああ、いつか「宮本武蔵」のなかのお通の「ただ一こと」をお話しました、覚えていらっしゃるかしら。友情だって土台は同じです。友情なんかを架空的なロマンティシスムでいうのは誤っています。所謂ロマンティシスムでもてる愛などというものは、この現実に只の一つもあるものではないのですものね。
 栗林氏のところへ電話したらまだ帰宅せず。様子分りません。八月は外に用事なし
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