ちゃん、もし夜なか行くようになったら、すまないが来て頂戴」というわけです。それから私は二階で一眠りしたら、咲枝がすこし亢奮した声で医者に電話かけている声で目がさめました。枕もとの時計を見たら三時。すぐ下りて行ってやったら「アーラ、よくおきてくれたこと、よくねていたらしかったのに」ともう着物着かえています、私もいそいで身仕度して千鳥の自動車(うちのは工場へやってあるので、今夜はたのむとタクシーに特約してあったの)で青山六丁目の沢崎という医者のところへゆきました。三時半と四時の間に着。それからきものかえて、咲産室に入ったのが三十分ほど後で、五時十五分前に私は「ではお二階でお待ち下さい」と云われました。室で、籐椅子二つつないで脚をのばし、半ば眠りながら十二日の朝のこと思っていたら、下で急に赤坊のいかにも威勢のいい声がしました。よその赤坊と思って二声、三声きいていたが、下に室はないこと思い出し、いそいで階段口へ行きかかったら、バタバタ下から駈けのぼって来た看護婦が「御安産でございますよ、お嬢さまでございます、お二人ともお元気」と云ってものをとりに行きました。「ああよかった!」思わず声に出して「何てよかったんだろう! 本当によかった!」そういって電話室に入り、国男呼ぶのが[#「が」に「ママ」の注記]なかなか出ない。ブズーブズー、二十分もして出ました。生れたこと云うと、妙な咳して「よかったね」と云っている。折から赤坊又泣き出したので、電話室のドアあけて「きこえるだろ、あの声がそうよ」ときかせてやったら、又咳払いのようなことして「ああ。ああ。」と云っている。そういう風になるのね。五時二十分に生れました。ですから陣痛が高まってから三十五分ぐらい。家を出てから二時間余。あやういことでした。自動車の予約がなかったら大あわてのところ。「百合ちゃん来てくれて、よかったよかった」と云い、しばらく手をにぎって話していてかえりました。それが七時。お産の間の時間は何と経つのが早いでしょう! びっくりしました。仕事している夜とお産とは、早く夜が経つこと。
私たちの祝福が、特別きのうは咲枝にまできいたのかもしれないと、ひとり思ってうれし笑いいたしました。七時ではこの頃円タクなし。タクシーをやとってかえって来て、玉子二つたべて十二時まで熟睡しました。どうかあなたも御安心下さい。よかったわね。これは本当の安産でした。可愛い女の子よ。家のしるしで、やっぱりくっきりと[#図13、唇の絵]こういう山形の上唇をして。体重は七百六十匁。すこし軽めです。けれども実に張りきった声で音吐朗々と啼《な》き、男の子のような勢です。可愛いこと! 小さい小さい顔よ。鼻の頭すこし擦れて、短時間に生れたから楽でね、息づかいも柔らかに赤いふとんかけている。夜あけの町の物音、つゆにぬれているプラタナスの葉っぱの色。自動車ひろいに出たらまだ閉っている店の前に咲いていた一輪の朝顔、みんな新鮮で。何だかすこし涙っぽいような心持でした。太郎のときはこの味知りません。上落合の家で、父が「オトコノコアンザン」と電報くれただけだったから。はじめて父親になったひと小説かきたくなるわけね。平凡事ながらやはり決して平凡ではありません。二人でこの赤ん坊見たいと思いました。又いまにあっこおばちゃんのおじちゃんに御対面ねがいます、私が抱いて行くわ。あなたにもはじめての姪ですね。
午後から国男、アボチン改称お兄ちゃん同伴、初対面に出かけます。島田からもおきき下すっていますから御通知いたしましょう。克ちゃんの御良人、十日に岡山へ応召した由、ふと克ちゃん、もしやお母さんになるのではなかろうかと思ったりしました。
今池田さんから電話。お役所の用で来て、十五日ごろまでいる由です。
きのう、本をひっくりかえしていたら「化粧」という詩が目につきました。ごく簡素な清潔な感覚で、女が自分の愛するものにふれられたところを、湯上りに特別の愛着で、ゆっくりと自分たちの情愛への心をこめて、化粧する。そういう詩です。ソネットね。なかなか趣深うございました。
速達(十一日)もう御覧になったでしょう。九年度年かんと一緒の『メチニコフ伝』はいつぞや『ミケルアンジェロ』をくれた人が、あなたへとわざわざ合本してくれたものです。どんな本かしら。こんなものをユリにかかせたいと思いになるものかしら。私はよんで居りませんが。どうもこの奥さん、自分の気持にだけ入って書いているのではないかと思いましたが。献詞を見て。親愛なる彼[#「彼」に傍点]とは妙だわ。では呉々お大切に。
八月十七日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十七日夜 第七十八信
きょうは大変長時間で、うちへかえって来たのが七時でした、タクシーにのってその時間。六時半ま
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