スべて出かける着物にきかえているところへ稲ちゃん来。『くれない』が再版になったので、それは思っていなかったことだから、いつかの分の1/5だけ、とにかくかえすと云ってもって来てくれました。私は勿論よろこんで貰いました。稲ちゃんは前から随分気にしていたのですから。
 音楽会はなかなか面白うございました。日本での初演が二つあって、一つはイギリスの民謡をとった狂想曲、もう一つはワルツやポルカ、スイスのヨーデルの歌、パセドーブル、タランテラなどという舞曲の組曲。あとのはそれぞれの舞曲としての特長を相当活かして演奏され、面白く思いました。あとはベートウヴェンの第五。第五もうまかった。そして、かえって寿江子の話が又面白かった、というのは、寿江子は作曲や音楽史の仕事を自分の仕事と思っていろいろ考えている故で、例えば指揮のことでも随分こまかく観察しているのです。例えばこの第五にしろ組曲にしろ、一団としてあげている効果だけ、各人が自身の理解をもっているのではない。そういうのを、一つとまとめてあれだけにひっぱってゆくのは、指揮者のよさであり、このローゼンシュトックという人は、指揮に当って、只一音の笛のためにもちゃんとその笛に向ってよびかけを与え、転調するときは前もってやはり注意を与えている。実にこまかく、そしてひっぱりこまれるところがある。普通の人は、幾つかの小節のはじまりにだけきっかけを与えるけれども、と。この話、私は面白く思いました。これは只譜を読む人、それで指揮する人と自分で作曲する人が指揮するとの違いで、前者はよんでパラフレイズするのだが、後の人はとにかく自分の感覚と体を通せるのですから、指揮するとき、おのずから細部が把握出来、それを一つ一つオーケストラ部員につたえてゆく冷静さ(丁度書いてゆくとき、一字一字を実にしっかりと自分の手の下においている力をもって、初めて書ける如く)もあるわけでしょう。技術団体の指揮(技術上の)というものについて、その話からいろいろと考えがひろがって何か考えるところもありました。
 寿江子も本腰になって来ているし、私はいろんな専門的な話し対手として、わかるところと知らないところとのつり合いがほどほどだと見え、(音楽について)この頃話は実質があってようございます。何年も病気して楽器を只キーキーいじることが出来ず、本をよみ、人生的な様々の経験をしたのも、今となって見れば非常なプラスです。曰ク、「もしお姉様と同じ仕事なんかだったら、きっとやらなくなっちゃうだろう。」これは分る心持ですね。この頃は、生活の現実の中にはまりこんでいなくては、ちゃんとした仕事なんか出来っこないとわかって来ているから、本当に何よりです。考えたって分ることじゃない、そう云って居ります。生活において底をつくこと、それが人間の成長と芸術の生長のためにどんなに大切かということ、それも分って来たようです。これらのこと、すべてはうれしゅうございますね。仕事に対してねばりがつよいために段々追求して行って、結局それは何故という問題にぶつかる。ですから、音楽史が、過去には一つも生活とのつながりが何故というところで解かれていないことを発見して来ました。音楽史ではグレゴリー音階というのが、音階の歴史的第一歩の発展とされているが、只そう云われるだけで、どういうところからその発展が導き出されたか説明されていない、変だ、というわけです。ああ寿江子も体が弱いのは可哀そうだが、そして貧乏なのも音楽の勉強には楽でないが、そのために正気に戻って大人になりつつあるのは何といいでしょう。昔のような生活が万一つづいていたとしたら、どんなに折角のもちものが、むき出しの現実の中で磨き出されず、歪んだりごみをかぶった大きい塊りになったりしたことでしょう。でも私たち姉妹の悲劇はね、私は全く静かで仕事したいし、片方は全く音がいるという矛盾です。解決は、家の空間的な大さ。そして、それは云々と、因果の糸車でね。二人で、二匹のこま鼠のように向いあって、何ぞというとこの因果の糸車をまわして見るのですが、どうも軸の場所は同じなので、変った回転も今だに見出せません。私はうんと勉強し、仕事しようと思います。益※[#二の字点、1−2−22]そう思って居り、それの出来る予感もある。ですから、この車が又ぞろ出るというわけです。これから仕事にとりかかります。新書にウィットフォーゲルの『支那経済研究』が出て、面白い由です。御大切に。

 六月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月二日  第四十五信
 きょうは、結局二度お歩きになることになってしまったようですね、おつかれになったでしょう? かえりに電話かけて見たら丁度そろそろそちらにつく頃だとのことでしたから。かち合わないようにとわざわざたのんだのにね。

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