歩は、質の向上です。私はよく、一家族の間における人それぞれの影響、それのうけかたというものについて考えて居りましたから。強烈な存在と他のより強烈でないものがどう結びついてゆくかということは実に微妙ですから。リアクションがこれ又微妙な形であり得るのですから。ごく皮相な、当面の不便或はよくわからない迷惑感というものも作用し得るのですから。達ちゃんが、あなたを頼りになる兄として感じはじめたということは、達ちゃんがこれ迄にない辛苦や生死やに直面してからのことで、本気なものが出来て来ている証拠です。生活は何と複雑でしょう。これなど、私たち一家の面している時代的な生活の波の間から、ひろわれた一つの宝のようなものですね。決して架空にはなかったものです。
お母さんも二人いよいよ出しておやりになって、心配ではあるが希望も十分もっていらっしゃるから何よりです。きのうのかえりの汽車の中では、私も何とも云えない心持になって、もしやお母さん涙をおこぼしになりはしまいかと気づかいましたが、窓のところに肱をかけて、何か小声で歌をうたっていらっしゃいました、軍歌の切れを。そしたら私の方が、唇が震えて来るようでした。東京へ行ってあなたに会って来よう、そういうお気持、十分十分わかるでしょう? 写真でない生《なま》の息子の顔を見たい、その気持には深い深いものがあると思われます。おそらくは自分で説明や分析のお出来にならないほどのものが。
では二十一日ごろ又書きます。二十日に会っての様子も。呉々お大切に。風邪をひき易い暖かさですから。これから寿江子に手紙かいて、お母さんをお迎えする仕度をさせます。
四月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(はがき)〕
四月二十日午後七時十五分すぎ。(細かくは明日手紙で。)
今隆ちゃんに一番しまいの面会をすまして広島駅にかえってきたところ。徳山行が八時二十分なので、お母さんは駅の待合室にお待ち頂き、一寸郵便局へ来てこれを出します。今日こちら降ったりやんだりの天気でしたが、十時ごろ連隊にゆき、買物不足分を補充して三時すぎから六時までゆっくりと話し、隆ちゃんもお母様も大満足で何よりでした。あなたからの電報か何か待ち心のようでしたが、こちらの電報御覧になったかしら。
四月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月二十一日 第三十三信
さて、きょうは沢山書くことがある日です。この手紙のつく前二十四日に寿江子があらましの様子申しあげましたろうが、十八日づけのこのお手紙、速達で二十日につきましたがそれはもう夜でね、母上と広島に行っていた留守。十時二十分かにかえって来て拝見した次第です。したがってこのお手紙について隆ちゃんに話すことは出来ませんでしたが、おことづけはよくしましたし遺憾はないと思います。
十七日にあの手紙書いてから野原へゆきました。六時半のバスで。あの手紙書いているとき叔母さんがいらしてね。去年までの習慣で私はまだ二階で寝ているだろうと思って下に喋っていらしたのですって。そこへ私が下りて行ったというわけ。それから二時すぎおかえり迄つき合っていて、夕刻バスで行きました。この頃はガソリンがないから野原まで直通バスは一日一回です。上島田《カミシマダ》を少し出はずれると、野原へのあの一本道の幅が、ところどころ左手の山をくずして大分ひろく、車をかわすのに便利のようになっているのが目につきました。島田市《シマダイチ》附近は、もう大分活況を示していて、「山一組出張所」というような板カンバンが出て居り、すこしゆくと、あの池(景色のよい)の手前あたりの右手の山が切りくずされ朝鮮人のバラックが幾棟か建って洗濯物が干しつらねられ、土方たちがもう仕事からかえった時刻で、何だかかたまって遊んでいるのがバスの上から見えました。もうそのあたりから、緑暗色の外見は実に陰鬱なコンクリートの高さ一丈、底辺の厚み三尺三寸とかいう高壁が蜒々《えんえん》と松の木の間、小丘の裾をうねりつづいて丁度野原の家の前の辺が正門になる由。周囲の樹木の色との関係で平面に見たときああいう色は便宜なのだろうと理解されますが、道行人はエレベーションで見たのですから全く陰気な印象です。正門という辺はまだ出来ていず、その壁は野原のお墓ね、あの日当りのいい、いかにも野の真中の、あのずっと手前を通過して、郵便局よりの墓地のところで終る由。野原の奥座敷の鶏舎よりの廊下の障子をあけたら、いきなり朝鮮人の宿舎の窓があって(鶏舎をかりている)裸の男や何かいて面くらいました。その連中は鶏舎一棟を十五円でかりている。三つに室が分かれているところを一つは雑居、一つは食堂、一つは親方というのがその家族と住んでいる由。朝鮮の唄声、朝鮮の笛の音が、朝目をさましたときからきこ
前へ
次へ
全192ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング