このごろ、やっと大部な著作の読書にとりかかって、感歎おくあたわず、です。涙ぐむほどの羨望です。純粋の羨望であって、腹の中では顫えるようです。小説においても、文芸評論においても、こういう態度に些か近づくことを得れば、本当に死んでもいい、そう思う。学問、最も人間的な学究というものの態度、鋭い分析と綜合との間で活き物である現象をとらえ、本質を明らかにしつつ再び活物としての在りようをその全関係と矛盾との間で描き出す力。そして、おどろきを新たにすることは、これらの精気溢るる筆が、対象をあくまで追究しつつ、決して、作家の頭にあるような読者を問題にしていず、念頭になく、筆端は常に内向的であることです。真の文学評論は、正にこういう性質のものでなければならないのですね。作品に即して、その世界の内外をあまねく眺め、よって来るところ赴く客観的なものなどが、煩いとなっていない学芸性。私の作品評などが、学問の基礎をもっていないということは、こういう点とてらし合わして見て、態度そのものが、子供のようなものだということがわかる。子供の怒りにしても尊重さるべきものがあります。しかしそれは大人になるからこそ価値があるのですから。学問的土台がない、ある、ということと深いものをもっている。古今の文芸評論を読破したという学問性だけは、学問性でない。それを読んだことなくても、学問性はあり得ます、正常な生活と文学とを語り、判読し得る。そういう学問性にまでめぐり合えないものが、卑俗な学問性に反撥して、現象主義になり、批評家はいらないと壮言する作家を生むし、一方、そう云われるのも事更わるくないというような批評家を生んでいる。
私にも、どうやら学問らしいものの面白さが、わかって来たことをおよろこび下さい。この著者のものはこの前の手紙にかいた本を入れて、四冊よんで、こんど五冊目にとりかかっているわけです。実に多くを教えます。自分のわかって行きかた、丁度鳶のようと思う。下に餌がある。鳶はぐるりぐるりと外から大きい輪を段々せばめて行って、最後にはその餌にさっと降りる。何だかボーとしている。すこしわかる。段々わかる。わかる、わかる、そしてテンポ(内容に近づく)が早まる。こういうテンポも人間の全体のリズムで面白いと思います。外を撫でて字をよむ。ところどころ一寸突入る。やがて全体やや沈んで、沈んで、こんどは内からよむようになる。まだ内からよむところまで到達はして居りませんが、この頃は、フト気がついて、あらと思う、内側からよんでいた自分に心づくのです。
こういう風な読書力がつけば、文学評論の古典もやがて読んでゆけるでしょう。億劫がらず。実にひどい読書力ね。何と女[#「女」に傍点]でしょう。たすきかけて、前かけかけて(ああ思い出した、ユリが、かえると云って前かけかける、と笑われたこと)一寸ぱたぱたやってフーとすぐぐったりとしてしまうような。
私はどんなつまらない小説でも小説でさえあれば、あとからあとからよんであきない、というそういう風な本好きではないのです。又、随筆的境地でもない。だから本当の読書力がつかないと、妙なことになります。
おかあさんからお手紙が来ました。隆ちゃん案外に早く五月初旬渡支ではないかとの由です。四月二日に面会にいらして様子知らして下さるそうです。本年は二回に入営させ、一回(隆ちゃん)は一月。二回分は五月初旬の由。一回分はいられませんから。そうしたら私は五月のとりつきか四月下旬に行かなければなりませんでしょうね。六月六日までの間に一度かえることになりましょうか、居っきりでしょうか。考えておいて下さいまし。行ってかえり、又行く。それも大変です。けれど。
四月一日から島田村が周南町と改名になります。
おかあさんのこの頃のお手紙によって、うちのこともその他順立てようと考えます。もし四月下旬に行って六月六日をすますまでいるとすれば、適当なアパートが見つからなくても、荷物だけ林町へやり、もしおひささんが保姆学校へうちから通うのなら林町から通わせてもよいとも考えて居ります。おひささんもかえって見なければわからず、島田からのお手紙も来なければわからないわけですが。おひささんの学校は四月十三日からはじまり、婚礼はそれよりあとになるでしょう。学校が大森に近いと云って、そっちへ行って同棲してしまうこともこまるだろうから、うちから通ってよいということにしてあるのです。それでもこっちに生活の目標があるので今度は早くかえって来ること! この前の秋などかえろうかかえるまいかと実にひっぱっていたのに。
おかあさん、私が行きたいと云ってあげ、もう馴れたから特別の心づかいは真平だからと云ってあげたらおよろこびです。あなたもそう云っていらっしゃる(行けと)というのならなおうれしいことです。
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