出しとやってゆく。そうやってゆく根気がつづくか、息が切れるかというところが、かね合いのようである。
 私の特長となっていた傾向として、第二段目から次への成長の路が、古いものの投影ではっきり見られなかったということ(名のことの場合など)実に、今明瞭に自身批判され得ます。それから又より高い規準にてらしての節度あるモラルの必要ということも。周囲の客観的な条件へのはっきりした目、そして処理、自分の生活で一番大切なのは何か、それとの関係においてどう評価されるべきことかという見きわめ、それらが明瞭につかまれていれば、自分の人のよさなんかに我知らず甘えなければ、無用の混乱は生じないわけです。この点でも相当学んだと思います。それから、前に退院したときのマイナス的状態のことも、今は主観的な気持をぬいて見られるから、ここに云われていることをその通りだと思います。
 いつでもそうであるけれども、今は、一人の人間が手ばなしだったり小主観にいい気になっていたりしては、迚もまともに生きられない時代です。文学のありようからにしろそのことは犇々と来る。作家として謙遜に、人間らしい健全性を希うことからがすでに全面の摩擦にさらされる時期です。ユリが、私という歴史的主語について、非常に考えぶかくなり、疑問を抱き、自身を嘗てはゆたかに、つよくあらしめたが、その時期は去って、これからは引とめ材としか役立たないと腹から感じるようになったことは、総ざらい会話の何よりの宝です。木の芽に、先のとがった一点があって、成長がそこを中心として見えるように人間の成長の真のきっかけというのは、平面的なものでなく、集約的であって、核がある。原形質のようなものを突くか、そこをはずれているかで、刺戟の効果は違う。そのようですね、ユリは、その点で「私」をつかまえたこと、つかまえるようにしていただけたこと、それを心からよろこんで居ります。これはこれから先、相当の期間つづく中心的点で、しっかりとらえてはなさぬロック・クライミングの足がかりとしてゆけば、きっと眼界はひろがり、身は高きに近づけるでしょう。自分を撫でまわすことをやめてきつく云えば、節度ある規準への敏感さのゆるみ、客観的条件の不十分な把握、真の自主性のずりなんかは、いずれも、「私」の変化した現象形態だと思っています。あなたは知っていらっしゃるでしょう? 日本の過去の文学は、その
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