所の店で買いました 春らしい色をしている、胸の前に一寸下げて下さい。私もふだんのを一つ買った。赤い縞のついているの。
 きょうはこれからずーっとやって、午後は栄さんのところで例のノエ式をかけて貰おうかなど考えて居ります。背中がつかれているから。まるでトンネル掘りの土工が、そらもう一シャベルとはり合をつけてやるように、せっせせっせとかかっているので、頭より背中がくたびれる。しかし生活が与える新しい経験というようなものは実に面白い。
 冨美ちゃんの試験は 26,7 日で終ったわけですがどうだったろうかしら。体が腺病質なので。東京の小学校では、体によって肝油をやっています(金を払ってですが)。あっちではそういうことはしない。三十日すぎたらきいてあげて見ましょう。
 新協で朝鮮の伝説春香伝をやっている。「若い人」(映画)の女主人公をやって好評であった市川春代が春香にとび入り、赤木蘭子を対手の男にしてトムさんレヴューばりです。まだ見ない。近いうちに行きたいと思って居ります。原泉、病気をおして春香のおふくろさんをやって居ます。どうかお元気で。きょうもこれで余り暖くもないようですね。又近いうちにいろいろと書きます。

 四月五日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月四日  第十六信
 落付かない天候ですが、ずっとお体の調子はつづいて平らかですか。けさおきて、下へ行ったら、例の茶箪笥《ちゃだんす》の上に、桜の花の枝がさしてあったので、おやまあ、どうしたの、と云ったら、往来でどっかのお爺さんが太い枝をおろしていたのの、あまりを貰って来たのだそうでした。仄《ほの》かに匂う。何年も前、国府津で、四月六日の朝、長テーブルの青銅の瓶に活けられていた奇麗な山桜の房々とした枝を、忽然と思い出しました。枝の新鮮な艶を帯びた銀茶色がやはり似ている。花はずっと貧弱だけれども。それから上へあがって、物干しに上って四方《よも》の景色を眺めたら、あちらに一本、こちらに三四本と八分通りの桜が見えました。そこには桜の樹はなさそうですね。
 ところで、冨美ちゃんは、室積《むろづみ》の女学校へ入ったそうです。お祝に字引きをやりましょう。室積に通うということは、つまり元の野原の家に住みつづけるということでしょう。それなら体のためにも、気分の落付きにもよろしいでしょう。広島というせわしない町の、ごみごみ
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