ニして自然発生的な洞察力みたいなものに導かれつつもやや勉強法が分って来て、文学における日本的なものの擡頭の時期は、少しは歴史そのものの[#「の」に「ママ」の注記]即しての文学的言説を行うことも出来た。続いて、所謂大人の文学の提唱があり引つづきヒューマニズムの論があり、文学のモラルの問題、ルポルタージュの問題があり、それらを自身としてはリアリズムの太根にぎっしり据えて扱うべきが正しいという、自身の文学的プログラムによっていた。
 ところで、この時代に入ってから、(ごく近い。一九三六年のごく末から三七年)自分というものの箇的な作用が、従前より一層複雑に現れてきたと考えられる。それまでの努力の結果、生活的にも文学的にも一般的な或承認を獲ることが出来たが、私へかえって来る承認の形は、時代の性格を反映してどこまでも箇的であった。所謂人物論風である。何によってしかるかとは見ない。一人の作家を活かしてゆく力を見ず、生きてゆく作家一人を見る。自力一点ばりに見る。それは一般の目の本質であるが。当人にその誤りと矛盾とが判っているのだが、例えば賛辞への反駁として、そういう見かたは一人の作家の全貌を語らず、又現実を誤っている。人間の成長はかくの如き諸関係で云々と、まともから云えないような事情にある。それは或片腹痛さであり、賞讚に対して批評があり、賞められてうれしくて一層へりくだって励むというのとは、少し違った皮肉が加わらざるを得ない。水準は全く低い。それとの対比で現れるために、当人を高めるより低くつないでおく力がよりつよい。無いよりは増しという最低限度の要求が、文化の枯渇の増大につれて切実にましていること。それに答えてゆくことが、いつしか自身の低下への正当化となること。(これは本年に入ってからの一般的現象)
 一箇の作家としての評価というものが、箇人的なものに逆行して行くこと、及びその危険を、ジイドの旅行記批評を書いたとき、おそろしく感じた。(一九三七年正月)ジイドがコンゴ紀行をかいたときの、見せられるものは見ないぞ、私が見るものを見るのだと云って執った態度は、その条件にあっては一つの健全性であった。彼に見せようとされたものは、常にこしらえものであったのだから。彼が目で見た土人の暮しかたが現実であったのだから。然し、二十年の後彼が出かけた旅先の社会条件は、彼のこの箇人主義的な人生態度の枠を
前へ 次へ
全237ページ中224ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング