[ズニッツア》(マヤコフスキー)であった理由、未来派の手法は、新しいリアリズムにより動[#「動」に傍点]きをもたらさぬこと。貴方には恥しいけれど、一寸柔道を試みてね、絵の動[#「動」に傍点]きは動きの中で、未来派のように車輪をいくつ重ねてボヤかして見たってはじまらず、とまっていたものが動[#「動」に傍点]くその瞬間の重心の移動でとらえねばならぬこと、それについてロダンの云っていること。
久しぶりで、方面の違った話をやって全く面白かった。光子さんが絵を出品する前に見て呉れというので、泊っている友達の家へゆきました。(そこがそのドイツ語の女のひとでした)岩松君も二点よこしていたが、夫婦の作品をくらべて、芸術家の夫妻のこわさを痛感しました。光子さんは、昔から丹念にかいて隅々まで描いていたタイプです。岩松さんは、顔なんかばかり興味をもって、しかもその顔から全体が浮ばないように扱っていたが、今度の夫婦の作品は腰の据りかたで一寸おどろきました。光子さんの絵はピアノをひいている若い女なのだが、ちゃんと一つの絵として落付いて居り、ピアノの黒いひろい面をもこなしています。淳さんは去年のように又魚を描いたり、人形二つ描いたり、光子さんの父を描いているが、肖像に於てはバックも体も破タンしています。何か画面で狙って描いていてしかもそれがつかまらない。そういう感じ。光子さんの工場の絵は、昨年の方がよかった。本年のは、技術上は進んでいる大工場ですが、そこは馴れないところなのでお客で、構図を十分考えるゆとりなく、作者(画家)の立場(描く焦点)がない。それに面白いことは、近代設備は、昨年の作事場《さくじば》的工場内よりカラリとしていて、独特の空気があるのが、光子さんの筆触ではまだつかまれなかった。でもそうやって、一年ごとにより進んだより多面な努力をつづけてゆくのは感心です。でも、父母が制作にかかって気が亢《たか》ぶっていると、子供は(六歳)体をわるくしたりしてしまう由。おばあちゃんのところに行っていた由。私は光子さんが下手くそで、紙屑だかナプキンだか分らないもの、つやも光りもない果物をかいていた頃から、その勉強ぶりを買っていたので、年毎にジリジリと成長して、現代の婦人画家の中では次第に本ものの実力を高めて来るのを見るのがうれしい。いつかのエハガキにしろ、あのひとのある心もちの傾向がわかるでしょう
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