ハには、この調子を保って行こうと欲する、極めて自然な要求が心のどこかにあって、それは、結果としては万事事なかれ風なものになっている。人間の心持というのは何と微妙でしょう。休息が今肉体的にも入用なのであるから、或意味で神経を鎮める上にも、自然の作用なのではあろうけれども。――私のしてあげる一寸したことでも実によろこんで下さる。すまないように悦んで下さる。よろこぶのを待ちかねていたようによろこんで下さる。そして、そんなによろこばれながら、そのよろこびは、全く日常性の範囲にだけガン強に限られていることを強く強く感じるのは何という悲しいよろこびでしょう。私はこれまでこんな感情は知らなかった。理屈に合わぬことは合理的なものの考えかたというところから話してやって来た、自分の親などにはずっとそうしてやって来た。
いろいろの点から、実にためになりました。本当に行ってよかった。これまでの私の生活の中にはなかったものが見られたし、接触出来たし。
一つ傑作のエピソードを。
或日、タバコ屋の方で人の声がする。前掛をかけた丸いユリが出てゆく。「バット一つ下さい」それが爺さんで、ユリの顔を見てはにかんだようにする。「ハイ、どうもありがとう、二銭のおつり」爺さんやっこらと腰をかけ、バットをぬいたがマッチをもっていない。「マッチがいりますね」わきの棚を見ると、マッチが沢山ボール箱に入っている。「ハイマッチ」「いくらです」見ると一銭とある。ユリ何心なく「一銭だが、マアいいその位のもんだからつけときましょう」「ハア、それはどうもありがとう」爺さん満足してかえる。ユリ、のこのこ中の間の方へ来かかりながら、オヤ、アラ、と気がついて、あああのマッチは売りものだったんだ、一銭だってとらなければいけなかったんだ、と気がついたときは、もうおそい。バット一ヶは利益八厘でしょう、一銭のマッチをつけては二厘損したわけになる。ユリ、ひとりで襖のかげで口をあいて笑ったが、お父さんにも母さんにも云う勇気なし。以上、傑作お嫁の商売往来、秘密の巻一巻の終り。
一巻の終りと云えば、島田へ野天のシネマが来て、二人と多賀子と野原から来ていた冨美子をつれて宮本武蔵を見にゆきました。島田では『大阪朝日』をとっています。そこに学芸欄というものは殆どないの。武蔵や連載小説が、関心の中心です。地方文化ということについて非常に考えた、又私はあっちで作家ではなく嫁のみであるという在りようについても。やはり文化のことを考えました。実にいろいろ面白い。活きた圧力です。では又。どうか風邪をお大切に。あっちから廻送されるお手紙が大変に待ちどおしく思われます。
四月二十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(クロード・モネの絵はがき)〕
二日ばかり前の細かい雨の降った日、新緑の濡れている色が美しくてうちに居られなくなりずっと歩いて土管の沢山ころがっているところの方を散歩しました。カラタチの花が高いところに白く咲いていた。小さい家が樹のかげにあった。入れた袷《あわせ》は鶴さんとお揃いです。ネマキは母上から。襦袢は島田で私がそうやっているのもよく似合うと云われつつ縫ったもの。
四月二十九日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
〔欄外に〕今日は休日で隣家に子供と遊ぶ父親の声がする。
島田のをぬかして第何信になるかしら。教えて下さいまし。
『文芸』に山本有三論のようなものを書くために、この間うちから殆ど全作品をよんでいて、昨夜それが終り、今日から書こうかと思っていたがどうもつまらない。有三の正義感というものの根源を明らかにすることが私の眼目なのだが、その根源がまことに云わば日常的で。――
四月十七日にあなたが島田宛に下すったお手紙うれしく、あなたがよろこんで下さることがうれしく、くりかえしくりかえし拝見しました。私に与えられたヨシヨシについても。ありがとう。私は島田からは多分第五信ぐらいしか書いていないと思います。殆どもう皆御覧になったわけね。その後お母さんのところからは頻りにお手紙下さいます。大阪からかえって来ている克子さんがお嫁の話があるのでこちらにいて島田の方をお手伝いしている由。富雄さんは広島へ戻って居り、土地の処分は、比較的有利に行きそうな由。
お父さんも、野原のことでは突然であったし、大分ショックをおうけになりましたが、それが鎮り、この頃は熱もおありにならないそうで、これは何よりです。熱がつづくと疲労するから。その点で私はひそかに心を痛めていたのだったから。送ってあげたゴムの袋は大していやがらずにつけていらっしゃいますって。あなたもよくお使いになるようおすすめ下さい。お母さんが大きな洗濯物のために川にゆき、まして梅雨にでもなれば本当にお困りなのです。でもよかったわ、お気にかな
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