してわるいというのではないのです。
一昨日の晩であったかKさんが始めて家へ来てしみじみ話して行った。人間が孤立的になる場合、その原因は人間としてのプラスの面からだけでは決してない。私はそのことを率直に話しました。そのように話したのは恐らく知りあってからはじめてです。稲ちゃん達はなかなか悪戦的日常(経済的に)ですがよくやって居り、静岡から妹夫婦が東京へ転任になって来ました。私の引越しは十二日頃です。番地がまだ不明。おしらせします。引越したらお目にかかりに行きます。お体を呉々もお大事に。変な気候をうまく調節してお暮し下さい。
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[自注1]野上さん――野上彌生子。
[自注2]目白のもとの家――一九三一年初夏から三二年一月下旬まで百合子が生活した家。
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一月十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕
一月十六日 午後四時 今柱時計が四つ打つ。
今年になって二つめのこの手紙を、私が何処で書いているとお思いになりますか。きっと、前の手紙を見ていらっしゃるだろうけれども、これは私たちの新しい家の二階の六畳のテーブルの前。やかましくない程度に省線の音をききながら、そして、この紙の横にあなたからいただいた二通の手紙、十二月二十六日のと一月六日のとを重ねておき、くりかえしくりかえしよみながら。丁度くたびれているひとが煙草を腹の中まで吸ってつかれをやすめ心愉《こころたの》しくしているような工合に。――十三日にこっちへ引越し、Xさんが家の仕事に馴れないし、いろいろ揃える仕事、本を片づける仕事その他できのうまでゴタゴタ。やっとさっき風呂に入り、さっぱりと髪を洗い、十三日の朝引越しさわぎの間で遑《あわただ》しく立ちよみして来た二つの手紙をよみなおし、この家ではじめて書くものとしてこの手紙を書いているわけです。十三日は、十一日までアンドレ・ジイドについての感想的評論をかいていてつかれ、(ジイドがURSSへ旅行したその旅行記に対して『プラウダ』や『文学新聞』が批判している。だが作家の内的矛盾の過程はその内部へ入って作家の独特な足つきに従って追求してゆかなければ、文学愛好者には納得ゆかぬのですから)十三日の引越しはどうかと、あぶながっていたところ、スエ子がなかなかのプロムプタア役で到遂[#「遂」に「ママ」の注記]引越しはスみました。十三日の晩は良ちゃん、てっちゃん、池田さん、詩の金さん、戸台さん[自注3]、栄さん、手つだいやら様子見やらに来て、十一人位で夕飯をたべました。
上落合の家にいたときは、大体独りっきりで、栄さんが近所に住んでいたから暮せたようなものの、ひどかった。その点今度はいいでしょう。但物価は最近五割近く高騰したものもあり、その方は閉口です。民間のサラリーマンの月給も上げてほしいという声たかく、偉い人々例えば(陸相)など民間も協力せよと云っていて下さるが、文筆家の稿料はどなたも上げよと仰云らぬ。いろいろ活きた浮世は面白の眺望です。お鍋を一つ買ったら、その商人曰く、これだけは昨日のねだんでお売り申上げますと。
ところで、この二つのお手紙は、いろいろの意味で私には大変うれしゅうございました。いつもながらありがとう。記念の心を送ってやりたいと思っていて下さるということ。どうかよく考えて、素敵な言葉でも下さい。そう書かれていることが既に私にとっては、香|馥郁《ふくいく》たる悦びの花束なのだけれど。こういうおくりものに対しては私は寡慾ではいられないわ。手紙を毎週待ったことは、私の申上げたことは覚えていたのです。もしか毎週書いていて下さるのに届かず、しかもそうと知らずにいるのなどつまらないから、それで一週間おきにと云ったのでした。しかし、ほしいという面から云えば毎日をもいとわず。今年は、お気の向くとおりに下さい。自分だけの心持を押し立てて云えば、あなたの手紙を血の中にまで吸収するのは誰よりもここにいる一人だと思っているのだから、云わば一行だって、ほかにこぼすのはいやな位、その位の貪婪《どんらん》さがあるのだが、そこは市民の礼譲で、どうぞほかへも、と云っている次第なのです。この正月は『文芸』へ横光の「厨房日記」の評を二十三枚、ジイドのを二十四枚かき。どれも最近の文集に入ります。きのうの晩も題を考え、なかなかうまいのがなくこまります。「昼夜」というのにしてスエ子の装幀にしようと思うのです。活きて動いた絵をかいて。これはもう原稿をわたす必要あり。木星社の本は二十五日です。私はその後書きを、心を傾けたおくりものとして一月の二十三日に書きます。よいものを書きます。そして、間に合えば、私の本やもう一つの本の印[自注4]は、あなたの書いて下さった私の名をそのまま印にしたのをつかいたい
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