立春の後といってもびっくりするような暖かさ。夜。
けさ、まだ本当は、はっきり起きたわけでもなく二階から下りて来たらXが
「お手紙が来て居ますよ」と云うので、茶の間に行ったら、ウラウラと朝日のさし込むテーブルの上にお盆があって、その上に手紙がちゃんとのせてあった。「うれしい」と云って、あけて、よんで、一つアアと安心して、顔を洗おうとして台所へ行ったけれど、眼がしぱつくので、ホーサンどこ? と大声を出したら、「そこの棚にあります」見るとアルのでそれを洗眼コップに入れて目を洗ったら、ピリッとする。ああ、こんなに充血していたのかともう片方洗ったら、何だかピリッとする工合が変なので目からはなした途端プーンとアルコールが匂った。「アラ! Xさーんアルコールで目を洗っちゃった」それから、ホーサンで洗い、水で洗い、まっかな目を鏡にうつして眺めていたら、Xがわきから「聞いたことないねェ」というので大笑いしてしまった。誰だって聞いたことなんかあるでしょうか! アルコールで目を洗ったなんて。
でも、気が抜けていて笑い話にすんだから御笑い下さい。(一封の手紙ユリをして動顛《どうてん》せしむることかくのごとし)きのう手紙を書いて一月六日づけの手紙を眺めて、いつ次のが来るのかしらと思ってそのことを書いた、それをやめて、これに改めました。家の生活のやりかたについて二重に考えて下すって、本当にありがとう。
私の手紙ですこし様子はお分りになったでしょう。自分でいやに腹を立てているところがあったので、あなたもいやと仰云った点、全身的に感じたのでした。でも、又次の手紙に書いた通りだし、今夜栄さんの話で、或はXに職業が見つかるし、そしたら私はずっとよくなるでしょう。生活の感情の微妙さ。目前の便利でまぎらすことの出来ない人間間の心持というものは何と活々と力のつよいものでしょう。それが逆に作用した場合には、目前の障害を踰《こ》ゆる人間感情の結合と隔全[#「全」に「ママ」の注記]とがなり立つのであるから、面白い。
私は一つ家に住むものがどんな対人関係をもっても、どんな生き方をしてもよいという風には思えず、蕊《ずい》まで見えるし触れてゆくので、Xなど今まで心づきもせず、思いもしなかった自分を発見している有様です。
ともかく、私はただしょげ[#「しょげ」に傍点]もしないし、御安心下さい。おくりものの第一、ありがとう。私は私で、あなたがどんなに僅かでもいい心持で本をお買いになるだろうと随分楽しみにしていたのでした。では頂きます。そして極めて高雅な図案でイニシアルを組合わせ、あの文句を刻《ほ》らせましょう。私は万年筆は余りつかわず特に仕事には。だからよく考えて或はペン軸にするかもしれません。よく考えましょう。毎日つかいたい。気を入れて書くものを其で書きたい。ね、そうでしょう?
私達の生涯を托するところのペンなのだから。只順に行っても其は三月の五日以後になります。或は全然、そういう都合にはゆかなくなるかもしれない。然し、もしそうであるなら、そうで、又私は、それをよいおくりものとして、記憶し得るわけです。そういうことが今日実現し得ないということで語られている作物の価値の意味に於て。
『リカアド』、繁治さん宛のお手紙も見せて貰いました。きょう小泉信三の正統派三人の研究を先に入れ、近日中に『リカアド』が見つかるでしょう。繁さんのところにもないのですから。戸台さんにたのんで居ります。プーシュキンもきょう入れ。
夜具衿とタオル二本。暮に中川へやってあった、訊いたら、「あちらで廃業になって居りませんから」とケロリとしている。別の方法をとりますから少しお待ち下さい。食慾がお出になったのは何よりです。私の方も、いろいろ家の落付く前のゴタゴタで気がつかれているが御安心下さい。然し、真面目に私は、生活の形態というものについて考えます。もっと下らぬ労力をはぶいた、しかも「お姉様」的でない生活はないものかと。あなたは御自分の家として、どのような形をお考えですか。どういうのがいいとお思いになる? 私は勉強、休養、を主眼にした極めて便利な家に、一人でやってゆけるような形で住むのがどうも一等らしく思えます。日本の家では、出かける前に雨戸をしめる、そのことだけでも大変です。一つ大きな勉強部屋、あと、八畳(客間、食堂)に四畳半位、台所(ごく能率的にする)湯殿。そして入口のドア一つピシとしめれば全部よろしいという工合なの。そして、手伝いの人に時間制で来て貰うというようなの。何か一つ大いに考える必要があります。この頃私は前よりも一層勉強が主の生活の心持なのだもの。日本建の家は家を守るための人手を余り要求しすぎます。生活も、その時代のいろいろの必要からかわるものですね。
きょう、咲枝が太郎を初めてこの家に
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