ォきものでした。貴方も覚えていらっしゃるでしょう? あの曲。静かな小川のほとりの部分もよく、特に楽しい農夫のつどいの部分(雷雨になる前の)、あすこはヨーロッパの村の祭、そこの音楽、雰囲気、ビール、踊、その気分が絵画的なまでにつかまれていて、私はききながらドイツの十七八世紀の風俗画を見るようでした。日本の楽人はこういう生活感情がないから、いわゆるベートーヴェン式に把握して、ロマンティックな自然感だけを描き出します。面白かったのは、その細君のカルメン・ワインガルトナー夫人の指揮です。ヨーロッパにも女のコンダクターは一人か二人です。いかにも細君風なの。バトンをもって立ったところが。ドメスティックなの。そして手法は非常に年長で大家である先生・良人に従っているので、何だか生粋でもないし、その人[#「その人」に傍点]は感覚もないし、刻み目、つっこみが浅く、いい人であることと、いい芸術家であることとは必しも一致しないという実例でした。暖い感じの人なのだけれど。なかなか暗示の多いところです。一つもピリッとしたところがない。女であるだけ私は残念でした。主観的にはまじめなのです。もちろん。こういうことも私は、前便で書いた、芸術は在らしめること、客観的に在らしめなければ、どんなよい意図もないに等しい、というあのことを感じ直させました。カルメンさんはあんな偉い人の細君だから、一つ背中をぶってハッとさせて、帯をしめなおさせてくれるような人はいないかもしれないから気の毒です。私は云ってやりたいが、素人[#「素人」に傍点]だと思って、やっぱりきかないにきまっている(これは冗談)。
 私はこの頃、あなたにかぶれて、或は刺戟されて、時間というものを実に内容豊富につかいたくてたまらない。仕事というものがわかってきた。時間がすぎてゆくその感覚なしに、のんべんだらりとしていられると、SUでもジリジリしてきます。私はよく仕事して、休むとき音楽がやれたら本当にうれしいのだけれど。私には文学・音楽・絵の順ですね。今仕事五十枚。半分。十日までにもうそれぐらい。チェホフは仕事にぴったりする気持を、紙と平らになるという表現でいっている。落付き工合を現わしてはいるが。私どもはもっと角度をもっているな。ただ平らではない。心の角度があって、いわば彫り出し、築き、現わしてゆくので、彫刻的な精神労作だから。平面をかいてゆくのではないから。ペシコフは単純に、夜灯の下でやるこの苦しいそして楽しい仕事といっている。何とそれぞれその人でしょう。私は何というでしょう。昼間の平均した光の裡で、刻々に人生を再現してゆく、そのむずかしさ、楽しさ。私は本当にまぶしくなく、さわがしくない昼間、誰にも邪魔される心配がなくて、せかずに書いてゆく心持は名状しがたい。時々改正通りが一筋ひろくそっちへつづいている様子など思いながら。
 あなたもお忙しいでしょうが、どうか時々は私を夢で訪ねて下さい。シャガールの絵ではないが、いきなり天井をぬいて、こぼれていらしってもびっくりはしませんから。林町の連中にはよろしく申します。アヤメとツバメの手拭はうちにもつかっています。あのシャボンの匂いはさっぱりしていると思いますが、どうだったかしら。

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[自注15]何とも申しようなし――拘置所の監房がせまいので、足がつかえ、顕治は膝をのばして寝たことはなかった。
[自注16]六芸社の本――宮本顕治『文芸評論』。
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 七月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十一日 日曜日 曇、小雨  第十七信
 さて、きょうは私たち、この小さい仕事部屋で久しぶりに二人っきりです。おととい仕事をすまして、きのうはくたびれていたが三越へ行って野原へあげるものを見て来て、きょうはのびのびとして貴方とさし向い。
 一昨夜の晩は豪雨がありました。割合におそくなってから。林町から自動車でかえって来たら、豪雨|沛然《はいぜん》たる夜のなかに、連って光っているあなたのところの電燈が眺められました。きのうは可笑しい日でね。くたびれてポケンとしていたものだから健坊とタア坊のお土産に買ったマリと、あなたのために涼しい下ばきを買ったのをタクシーの中に忘れてしまって、いねちゃんのところの玄関でター坊に歓迎の声をあげられて、ア、忘れたと又戸外へ出たがもとより後かたなし。でもマアどこかの子供とあの男がよその知らぬ人の計らざる御中元を貰ったのだからいいと思いなおしました。まして、その自動車はボロでしたから。
 健造とター坊は 私が仕事にくいついていて二十日ばかり現れなかったら、この頃来ないね、と云い、二銭ずつ二人でためて私のところへ来ると云ったのだって。私はそれに心を動かされて、先ずマリを買って出かけたのに。――そ
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