フです。作家が、自分の存在の客観的な意義を理解しない、理解する力をもたぬことは実に恐しい誤りを引起すものです。ジイドにしろ。だから、あなたが私の客観的理解力、進退等についていろいろ注意して下さることの価値は十分わかるつもりです。断乎とした忠言者のないこと。そしてその忠言には常に正当な私の仕事に対する努力の評価がふくまれ、更によりよいものを求めてなされるものである、そういうものが乏しいことは、たしかに私の可哀想と云えば云えることです。谷川などはまだまだいい方よ。私たちの作家としての存在そのものが、現在にあっては抗議的存在です。作家として粘ること自体がいかがわしい文学の潮流に対してのプロテストであり、今日もし私たちが阿諛《あゆ》的な賞讃など得られるとしたら、それこそ! それこそ! 謂わば、もし賞《ほ》められたら、それこそ目玉をくりむいて、賞めた人と賞められた点とを見きわめなければならない。そういう状態です。今日賞讃の性質は、従前のいつの時期より恐ろしい毒素をふくんで居るのです。私は賞められないことには、既に馴れています。賞められたくなんかないが、私たちが褒められないことの意義と、その健全性を、ヨシヨシと云って欲しい。実に、実に。抽象的に云ってはおわかりにならないかもしれないが。でもわかるでしょう?
今日作家としてまともであるには、単なる自分の才能の自負とか閲歴とか、何の足しにもならず。却って才能云々はその人の道をいつしかあらぬ方へ導く百パーセントの危険をもっている。私の人生派的傾向が、思わぬ力で今日の波瀾の間に私を落付かせているのです。この頃の室生、小林、林、河上、佐藤春夫、その他を作家というのであれば、私や稲公は作家の埒から夙《つと》にはずれているようなものです。或意味で、今日は文壇が自解[#「解」に「ママ」の注記]しつつあるばかりでなく従来の概念での文学が揺れている。逆な力で優位性の問題が出ていますからね。
私はここで活々として暮して、台所を手つだったり、風呂燃きしたり、全くわが家と暮しています。私はこっちへ来て、非常にこれまでの話と種類の違った稼ぎのいろいろの話をきいて、どうも思わぬ収穫を得つつあるらしい。この次の分はこちらで拝見出来るかしら。お大切に。花を入れました。
四月五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(徳山・幸町通りの写真の絵はがき)〕
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