すが。――
ずっと運動にはお出られになりますか? 入浴は? 今年は冬が大体暖く、春がもう来たようです。寿江子が鵠沼から来ると大抵私の方にいる。今も居ります。段々私の生活ぶりもわかって来て、ちょいちょいしたことでは手助けをするつもりで居ります。実際にどの位出来るかということは、おのずから別ですが。二月、三月(四月も)と『文芸春秋』に時評をかき、杉山平助氏から近頃の正論をはく批評家というようなことをきわめつけられ、ホーホーと我ながら批評家ということばに笑います。六芸社の本は序も簡単にしかしよくかけた方だし、好評です、全体としてそうなのは勿論当然であるが。ああいうものが売れる、それは実に興味ある現実です。私の楽天性の根拠いかに堅くリアルであるかと、努力を鼓舞されます。この前の手紙で書いたおくりもの第三についての私の心持はおわかりになっていただけたかしら。議論めかしくて可笑しいやですが、書くとやっぱりあのようにしか書きようがない。そして、私は心でひとりで思っているの、貴方は、御自分が本当に安心して大らかな心持でいらっしゃれるのは、ああいう風なところが私にあって初めて可能なのだがナ、と。己惚《うぬぼ》れではありません、決して決して。現実は錯綜して、困難で、もし私が自主的に生活に責任をもってゆけないのであったら、あなたは迚も心付きを云って下さるに暇《いとま》ないどころか、実際には常に万事手おくれであることになるのだから。でも、私は大体に、まだまだ貴方に勘でお心遣いをうけるようなアンポンがあるのね、そのことでは本当にすまないし、一方から云うと勘が本質的には的を外れないということが有難くうれしくもあります。
これは大変微妙な心持。このような歓びというのは。私は評論を、作家、人間としての洞察から現実に即して自由にかいて、或ことを云い得ている。小説でも、今どうやら一歩前進の過程にあるらしく、努力のコツとでもいうか、そういうものが会得されかかった感じです。現実を、その全体が立体的に活きて働くように書いてゆく、描写してゆく、何とそれはむずかしいでしょう。私は評論をかく上で体得したものを、小説で更に高く形象的に身につけようと意気ごんでいる次第です。私は、生れつきが小さい持味でまとめて、その人らしさだけで立ちゆくタイプではない、もっと違った何かがあって、それを全面的に発展させるためには自分
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