た。くすんだ藤色の表紙に黒い題字。早速速達で御覧にいれます。「この一冊に集められている作品の中には『一太と母』のように随分古く書かれたものもあり本年の一月に発表した『雑沓』のようなのもある。旅行記は小説ではないわけであるが私の作家としての生涯にこのような旅行記を書いた時代の生活は忘られないものであるし、今日では、五六年前に書かれた旅行記も却って或味いをもって読まれるので収録することにした。私たち一部の作家がこの数年間に経験した生活の道は実に曲折に富でいた。一つの作品から一つの作品への〔以下はがき(2)[#「(2)」は縦中横]〕間には、語りつくされぬ人間生活の汗が流された。そして、直接その汗について物語ることは困難である。私は益※[#二の字点、1−2−22]誰にでも読まれ得る小説として『雑沓』の続篇をかきつづけ、そのことによって私たちの芸術の到達点をも示し、自身の芸術を高め得るような仕事をしてゆきたいと願っている、一九三七年一月二十三日。」序です。今夜はこの家へはじめて佐藤俊子さん[自注8]が来て夕飯をたべ、手紙に押してあげた印を見て字の感じを大層ほめていました。あれは暖い字ですもの、本当に。とりあえず床に入る前。

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[自注8]佐藤俊子さん――前年の秋、十八年ぶりにアメリカからかえってきた佐藤(田村)俊子。
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 二月二十八日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二十八日 日曜日 晴
 きょうは何だか久しぶりで心持のよい晴天。きのうの晩は座談会で銀座へ出かけたら、かえりはひどい雨で、上落合の神近さんの家の先で、送ってくれた自動車が泥濘《ぬかるみ》にはまりこんでしまって荒ナワを車輪にからみつけても、砂利をおいても動かず。どうどうと降る雨の中でポツネンと待っていて、運転手が空車をつれて来て、それでうちへかえりました。その夜の雨の中でルームランプの明るい車の中にぽっつりといて、もうあなたはきっと眠っていらっしゃると、その刻限(十時すぎ)について考え何だか妙な気がしました。
 きょうは昨夜の雨で晴れた空気の工合が一層心持よいのだが、あなたのところではどうかしら。それに私は今日うれしいのは、一日お客をことわって、『昼夜随筆』のためにかいている感想を書いてしまおうとしているからもあるのです。駅のすぐそばにいろんなもの
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