の家では二晩おきに、二晩つづいて、奇声を発する変なチビ芸者をあげてさわぎがあり。小学校の先生が集団的にさわぐのです。ドタンドタン殺気と田舎らしい荒っぽさのこもった遊びぶりで、二階じゅうがゆれる。あげくに、廊下ですすり泣く声がして「よし、わかった、ナ? ええ、ええ」などと同僚になぐさめられている先生がいる。そういう有様。海抜二千八百尺のところでも、おお自動車の便利さよで、こういう光景が展開される。その自動車があるので、私は胸も苦しくせずに五千何尺(海抜)という志賀高原へのぼることも出来るのですが。戸外で山をながめ、引しまって新鮮で濃いような空気を吸っていると私は大変いい心持で休まって、さて、家へ入り仕事をせねばならないと思うと落付かぬ。これは妙な心持です。その原因についていろいろ考える。結局ユリは東京で徹夜しないようにして働いているのが一番「うれしがって、仕事をしている」状態らしい、そして、時々四五日、山の空気を吸いにでも来る方が。この心持はどういうのだろう。外部的な事情からではない、東京には私たちの生活があり、ここなどでは半分きりですからね、何だかダメだ。半分と半分との間で無理に延ばされ、ひっぱられているものがあって、だから駄目です。尤もこれは一方的な感じかたかもしれないのだけれども。
 十六日にお目にかかったら、途端にああ、休まったと感じるだろうと思っておかしい。ホウ、ユリのバカ。
 でも、日にやけたし、体がしまったし、脚は丈夫になったし、決して効果なしではありません。その点は御安心下さい。おかしいでしょう? だから主観的な私の心持の複雑な交錯にかかわらず、生理的な条件はよくなっていること確かです。きょうの手紙は永く書いても同じ。これでおしまい。

 十月十四日夜 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(中沢弘光筆「北信濃風景」の絵はがき)〕

 このエハガキに描かれているところは今は一面の段々の田で、稲が実り、背景の濃い杉山とつよい色調のコントラストです。多分この左手の方に一米十円をかけたという一万メートルの志賀高原へのドライヴ・ウエイが通って居ると思います。雪は上林で三四尺の由。志賀の上では七尺だそうです。冬の健康法を私は、雪の中で頬っぺたを赤くしてやりたいと思う。ポコポコしたところへ逃げずに、ね。
 中沢さんの絵では雪のブリリアントなところが出て居ません
前へ 次へ
全53ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング