しないで何とよかったろうかと思いました。(プランは昨年五月より少し前に描いたのです)私は自分の体を入れておく場所については、最も単純なのを好くようになりました。元からそうであったが猶そうなったから。いろいろの思い出、伝記、保存しなければならぬ責任、そういうものを欲しません。
(同じ夜)
私は或一人の作家の生涯について二百五十枚ばかりの勉強をするのだと思っていたところ、単に伝記を書く以上の収穫が、現在あることをつよくはっきり感じ出しました。何かが私の内部で芽をふくらしい。そういう予感。
二十七日の午後。
さあ、きょうはこれを書いてこの手紙は出すことに致しましょう。きのうはゴーゴリの「タラスブリバ」の試写を見て面白かったし又いろいろの感想もありました。国男は安積へゆき、家は至ってしずかになりました。家へかえってからはじめて音[#「音」に傍点]のない生活です。大変楽です。頭がよく働く。(今短い感想を書いたところ)鶴さん夫婦は日にやけていずれもまっくろです。私はその傍にゆくと心持がわるいほど白い。きょうも毛布のことが電話で通じられました。すぐ送ります。私は大変お手紙を楽しみにして、着くのを待って居ります。
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[自注18]愛情のこもった遺物――建築家であった百合子の父は一九三五年ごろ、百合子の住む家の設計図をいくとおりも作った。百合子にも住む家ぐらい何とかしてやりたい、と。百合子は、それが実現するとは思わず、またそれを維持してゆく経済条件がないから、家をつくることを希望していなかった。しかし、そのプランのどれにも、父は顕治が使うための室を割りあてていた。いつも、二人が住む家として考えていた。家は、実現しなかった。
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八月二十九日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(十国峠(1)[#「(1)」は縦中横]、熱海峠(2)[#「(2)」は縦中横]の絵はがき)〕
八月二十九日 土曜日。
きょうはスエ子、緑郎、紀《ただし》(従弟の一人)と江井という顔ぶれで、熱海をまわって十国峠を通り、つい最近出来た強羅公園のドライブウエーを宮の下へ出て夜十時すぎにかえりました。十国峠も強羅も私には初めてで、大変愉快でした。峠の上の濃い霧、すっかり道路が変っている国府津の家の前。〔以下絵はがき(2)[#「(2)」は縦中横]〕などいろいろ大
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