。心のしんでは、そして頭では、ひどくこれから書く小説のことについて集注的になりながら、何かそのための媒介物のようにこうやってこの手紙を書き、段々心持の落付きを深く感じつつあるの。
 私の机の上には又、レビタンというチェホフ時代の風景画家の描いた「雨後」という絵をハガキにしたのが一枚ある。非常にうるおいあり情趣あるリアリズムの画で、北の海フィンランド辺の海の入江の雨後の感じが活きて居ります。フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧《あお》い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺めました。でも大変風がきつかった。そして、さむくあった。
 黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともしないので、私は、あらこの海、香いのない花! と云ったことを覚えて居ります。日本の海はそういう点だけから見ればやはり相当ようございますね。
 湯ざめがして来てさむいのに、海のことを書いていて猶寒い。あなたはもう六時間ばかりするとお
前へ 次へ
全42ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング