自注9]等は恐慌的な顔付をしたが、まさかそれは大丈夫でしょうから、どうぞ御心配なさらないで下さい。水道をひく相談をはじめたら、なかなかはかどりません。井戸の水はただ。水道は最低九十三銭。だからいらないと裏の意見だそうです。尤もだと思い大多数の便宜に従います。
台所へ出てから、二階への梯子があり(これは玄関から障子をあけても行けるのです)、二階も縁側があり、入ってすぐが六畳、奥が四畳半。六畳の方に山田のおばあちゃん[自注10]のくれた机をおいて、四畳半へテーブルと、あなたのつかっていらした本棚をおきおさまっている次第です。二階の景色はよくてテーブルの右手の小窓をあけると、小学校の庭と建物越しに下落合の高台が見え、六畳の方の小窓からもそれにつづいての景色が一望されます。小学校だからチーチーパッパで、ときどきはやかましいが、清澄なやかましさで、神経には一向にさわりません。カンカンとよく響いて鐘がなったりしてね。窓から見ていると、友達にトタン塀の隅っこへおしつけられた二年生ぐらいの男の子がベソをかいて、何か喋っていることなどがあります。下の八畳も二階も、それはよく日が当って、実にからりとした私たちに似合った家です。家賃三十円也。井戸だし、少し不便だし、だからその位なのであろうという定評です。
達治さん[自注11]がこの一月二十日頃に入営することを叔父上がお話しになりましたか? その前に出来たらあなたに会われたらいいと思ったし(そちらにいつ頃まわるか私には見当もつかなかったから)母様の御出京の話もあったので、とりいそいで家をもったわけでした。あなたは御存知ないことだけれども、一昨年の十月末から国男夫婦[自注12]がケイオー病院のそばに家をもち、私はずっとその二階で暮して居りました。その家は、林町の母[自注13]が本年六月十三日に肺のエソでなくなり、(私が臨終の僅か五分前に辛うじて淀橋[自注14]からかえって会う事が出来た後、)引はらって、国男夫婦は林町にかえりました。私は夏ごろはずっと歩けなかったし、心臓衰弱で毎日注射していたし、すぐに家をもつことは出来ず林町の二階の長四畳へテーブルを持ちこんで、十月以後は、文学的な感想や評論のようなものを相当沢山かき半年前よりは発展をとげたということで一般に好評でした。現代文化社というところで私の最近の評論感想集[自注15]を出すそうで、多分一月頃出版の運びになるだろうと思って居ります。本年一月の『文芸』にかいた「小祝の一家」という小説は三一書房という本屋から出たいろいろな人十七人の『われらの成果』という小説集の中に集録されました。その小説集には島木健作「癩」、平田小六という「囚われた大地」という長篇小説をかいた元隆章閣の人などもはいっているし、婦人作家では私のほかにいね子[自注16]、松田さん[自注17]なども居ります。藤島まきという作家も出ました。文学におけるリアリズムの問題が、はじめ妙な傾向をもってトリビアリズムと混同して出されたし「ナルプ」は二月解散になったし、今もってその点では問題がのこされている有様です。私はそういうことについても、其だけ切りはなして云々せず、例えば窪川鶴次郎の「風雲」という小説の批評や、横光利一の大評判になった「紋章」などにふれつつ作家としての仕事ぶり生活ぶりにふれた感想そのものの書きかた、現実の生活的な問題としての文学理論上の問題の捉え方そのもので、正常なリアリズムの発展的な方法を示してゆくよう努力しているし、そのために好評でもあると思われます。小説について一九三二年の春ごろよりは又一段腰がすわったから、これからはいくらか書けます。何か、ここ一年の間に、私は作家として大分様々のものを見ききし、感情を鍛錬され、一層深く強い確信の上に立って生活するようになったから、どうぞ悠々とたのしみに私の仕事ぶりを見て下さい。十一月二十日に朝日講堂で神近さんの婦人文芸主催の文芸講演会では私の話がよろこばれ、私としても、あんなに身をいれて、わかりやすく、文学といっても一般化して云うことは出来ぬこと、文学を作るものの社会生活が反映して来ることを様々の作品の例をとって話せたことはなかったと思います。そのときの漫画はね、まるでバルザックみたいな(これは今井邦子の評)上半身の横に、一つ土瓶が描いてあるのでした。私が土瓶一つからだって、見るその人の生活によって、どんなに連想の内容がちがうかということを云ったからでしょう。文学における表現の形象性と云えば、重ね引出しを整理したら、そのことについて、あなたが中途でやめておおきになった古い、多分三四年昔の原稿が出て、その一枚を私は黒い細い枠に入れ、こうやってかいている机の横の壁にかけて居ります。わきの小窓にかかっている紫っぽいところに茶の細い格子のある
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