ではないと云ってもあんまりよい気持を起させなかった。
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「ちっとも朴突[#「突」に「(ママ)」の注記]なうまみのあるところがない
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と主婦はいやそうに云って居たけれども、添え手紙をもらって医者に話をきいて来た男の様子は、皆が可哀そうがって、涙組むほど、しおれて心配げに変って見えた。
 急にざわめきたった家中は、電話のはげしいベルの絶間ない響と、急にひどくなった雨の騒々しさに満たされて、書斎に物を書いて居る主人と娘は居たたまれない様にあちこちあるき、主婦は何か考えに沈んだ様にしてじいっと椅子から動かなかった。
 避病院に関しての迷信、
 子供の間から、駒込に曲って行く黒馬車や吊台を見るとにげるくせのついて居る娘は、家に居るよりは当人のためになるとは知りながら、何だか悪い事のある様な、恐ろしい気持にならずに居られなかった。
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「なおるでしょうねえ。
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と云って、
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「どうしてそんな事を云うのだい。
 なおるものはなおるに定まって居るじゃあないか。
 馬鹿な事を云う人だ。
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と叱られたりした。
 主婦は、斯うしたかなりの家から駒込送りの病人を出した事を非常に恥辱の様に思い、子供達は気味も悪がり、女中共は涙をこぼし、主は、
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「道徳だの頭の程度の違うものと生活するのはよくない事だ。
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と云って居た。
 斯うした種々の気持は皆一まとめになって物音もしない熱気の漲る病人の小部屋にながれて行くのであった。わびしそうな姿をして、口をもきかずに息子のわきについて居る父親は、自分の子をつれて行く黒馬車を待ちながら堪えられぬ怖れに迫られて居る様に、時々土間に下りては、暗い中を、遠い門の方をながめてぼんやり立ちくらして居るのを見ると、女親の様に、涙も気ままにこぼせない意地で保つ心根が、何かやさしい言葉をかけて、なぐさめてやりたいほどに思われた。
 雨の夜は更けるのが早い。
 娘は、自分の書斎の机の前に座って白いまま重ねられてある原稿紙をながめて下目をしたまま身動きもしなかった。



底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年1月29日作成
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