生活からの要望があると思う。六年で尋常が終ったときでさえ中途でやめて小学校さえ出ていない少年少女は、物心づいて周囲を見まわしたとき、無限の悲しさと寂しさとひけめとを感じただろう。その小さい女の子たちが母親になったとき、どんなにか子供にだけは人並の学校を、と希望しただろう。その母親たちの痛切な希願の何割が、八年制の国民学校になったために達成されるであろうかと考えられる。学校へ行ける子と行けない子の人生への心持の開きが大きくなるようだと、そこにはやはり問題があると思えるのである。
国民学校での教育方針も様々に考慮されているようである。国史のようなものがこれ迄より重視されることも意味はあるだろうけれども、数学・理科をより軽く見る傾きが極端になれば、それは過ぎたるは及ばずにもなる。年限の永さが教育の実質の高さを直接に証明するものでないことを常識は知りぬいていると思う。知育偏重排撃という流行的傾向があって、昨今その流行に乗じて語る人々は科学の精神がおのずから本来そなえている倫理性を理解していない場合が多すぎる印象である。もし数理の観念と打算性と結びつけてしか考えられないとしたら、それはそれ等の
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