[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「…………」
「強情つっぱったって分ってるんだ」
そして、嬲《なぶ》るように脛を竹刀で、あっち側こっち側と、間をおいてぶった。
「宮本がもうすっかり自白しているんだ。自分が読ましていたことさえ承認したら女のことでもあるし、早く帰してやって貰いたいと云っているんだ」
侮蔑と憤りとで自分は唇が白くなるようであった。刺すように語気が迸《ほとばし》った。
「――宮本が、どこにつかまっているんです!」
さすがにためらった。口のうちで、
「いつまでも勝手な真似はさせて置かないんだ」
ガラス窓からは晴れた四月の空と横丁の長屋の物干とが見える。腰巻、赤い子供の着るもの。春らしい日光を照りかえしながらそんなものが高くほさっている。
竹刀で床を突いては、テラテラ髪を分けた下の顔をつくって呶鳴る縞背広の存在とガラス一重外のそのようなあたり前の風景の対照はちぐはぐで自分の心に深く刻みつけられるのであった。
ケイ紙に書きつけた一項一項について、嘘を云っては、
「云わないつもりかァッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と竹刀を鳴らし、又、さけた一尺指しで顔を打とうとする。
三時間ばかりしてケイ紙は白いまんま、自分は留置場へ追い下ろされた。
その日の夕暮、今野が片手で痛む左の耳を押えたなり蒼い顔をして高等室から監房へかえって来た。
「何ちった?」
そう云って訊く看守におこった声で今野は、
「あんな医者になんが分るもんか。道具ももって来やしない。ひやしていろと云ったヨ」
と、足をひきずるようにして保護室に入った。風邪で熱が出て扁桃腺が膨《は》れていたところをビンタをくったので耳へ来て、二日ばかりひどく苦痛を訴えた。濡れ手拭がすぐあつくなる位熱があって、もう何日か飯がとおらないのであった。保護室には看護卒をしたというかっ払いが二人いて看守に、
「こりゃきっと中耳炎だね、あぶないですよ旦那放っといちゃ」
などと云い、今野自身も医者に見せろと要求した。
「貴様らァわるいこったら何でも知っていようが、医者のことまじゃ知るまい。余計なこと云うな」
だが、今日は呻《うな》るように痛いので自分まで要求してやっと医者を呼ばせたのであった。その医者が、ひやしていろ、と、つまり診ても診ないでも大して変りのないことを云ったのだ。
夜中に酔っぱらいが引っぱって来られ、廊下の隅に眠っていた自分は鼻の穴がムズムズするような埃りをかぶって目を醒した。
酔っぱらいは保護室へぶちこまれてからも、
「僕ァ……ずつ[#「ずつ」に傍点]に、ずつ[#「ずつ」に傍点]に口惜しいです。僕ァこんなところで……僕ァダダ大学生です!」
声を出して咽《むせ》び泣いている。
「五月蠅《うるせ》え野郎だナ。寝ねえか!」
眼の大きい与太者がドス声でどやしつけている。
「ねます! ねますッ。僕ァ……口惜しいです。僕ァ……ウ、ウ、ウ……」
第二房でも眼をさまし、鈍い光に照らされ半裸体の男でつまっている狭い檻の内部がざわつき出した。
「何だ、メソメソしてやがって! のしちゃえ、のしちゃエ!」
看守は騒ぎをよそに黒い外套を頭からすっぽり引きかぶって、テーブルの上に突っぷしている。
物も云わず拳固で殴りつける音が続けざまにした。暫くしずまったと思うと、
「アッ! いけねえ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
とび上るような声が保護室で起った。
「仕様がねじゃねえか。オイ、オイ、そっち向いた、そっち向いた」
「旦那! 旦那! あけてやって下さい!」
「旦那すんませんがあけて下さい。此奴《こいつ》、柄にもなく泡盛なんか喰《くら》いやがって……」
「フッ! 臭せェ!」
誰かの上に吐いたのだ。
自分は今野の体が心配で半分そっちへ注意を引かれた心持で朝十分間体操をやる。病気になってはならない。益々そう思うようになった。
十時頃、冷えのしみとおったうすら寒さと眠たさとでぼっとしているところへ、紺服の陽にやけた労働係が一人の色の白い丸ぽちゃな娘をつれて来た。
「しばらくここにいな」
「房外かね」
「そうだ」
「さ、ねえちゃん、そこへ坐ってくれ。仲間があって淋しくなくていいだろう」
娘は、派手な銘仙の両袖をかき合わせるようにして立っていたが、廊下のゴザの上へ自分と並んで坐り、小さい袋を横においた。むっちりしたきれいな手を膝の上においてうな垂れている。中指に赤い玉の指環がささっている。メリンスの長襦袢の袖口には白と赤とのレースがさっぱりとつけてある。――
程たってから自分は低い声でその娘に聞いた。
「つとめですか?」
「ええ」
「会社?」
「地下鉄なんです」
「……ストアですか?」
「いいえ。――出札」
「…………」
自分は異常な注意をよびおこされてそれきり暫く黙っていた。地下鉄ではついこの三月二十日から三日間従業員約百名内出札の婦人四〇名が参加して地下の引込線を利用して車輌四台を占領し、全国的注意を喚起したストライキをやった。原因は出征従業員を会社側で欠勤扱いにしたことであった。「触ルト死ぬゾ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と大書した紙をぶら下げた鉄条網に二百ボルトの電流を通じて警官の侵入を防いでいる写真が新聞に出たりした。闘争基金千円を募集し食糧を一ヵ月分車輌の中に運び込んでいること。婦人従業員をふくめた自衛団が組織され、全員十六歳から二十五歳という青年だがその統制が整然としていること。職場の特殊性をすべて争議団側に有利なように科学的に利用している点とともに、革命的指導による極めて新しいストライキの型を示すものであった。交通産業上に歴史的なばかりでなく、これまで日本にあったストライキから見ても、溌溂とした闘争力、計画性、科学的なやりかたで、広い影響を与えた。
信州でも、地下鉄のストライキとその婦人も勇敢に闘ったやりかたについては話に花が咲いたのであった。
ストライキは会社と警察を手古摺らせたが強制調停で終った。出征兵士は欠勤とし軍隊の日給をさし引いた賃銀を支給すること、各駅にオゾン発生器をおくこと、宿直手当、便所設置その他を獲得し、婦人従業員の有給生理休暇要求は拒絶されて女子の賜暇を男子と同じによこせ、事務服の夏二枚冬一枚の支給、その他を貫徹した。白鉢巻姿の、決意に燃える婦人争議員の写真が目にのこっている。
このストライキが起る前、地下鉄の従業員達は出征する従業員を品川駅へ見送りにやらされた。が、その連中は会社側が渡した日の丸の旗を振ることを大衆的に拒絶し、プラットフォームで戦争反対の演説をやって、メーデー歌を合唱したという話がある。又、ストライキに入った第一日に従業員出身の現役兵が籠城中の争議団員のところへやって来て、一緒に「資本家と闘いたい」と申し出た。ストライキ委員会は、それだけの熱意で兵営内闘争をやってくれと云い、兵士と従業員は革命的挨拶を交して別れたということも聞いた。
地下鉄、出札と聞いた瞬間、自分は一種の重圧をもって稲妻のようにそれらの闘争を思い起した。あのような顕著なストライキ後、敵は何かの形で、経営内を荒すであろう。この内気そうなぽっちゃりした娘さんと敵の襲撃とはどのような関係にあるのだろう。……
黙っていろいろ考えていると、今度は娘さんの方から口を利いた。
「……警視庁からはいつも何時頃来ますの?」
自分は、それは全然むこうの風次第だと答えた。現に自分などは一ヵ月近く留置場にぶち込まれているが、警視庁からはその間三四度来たか来ないかだ。娘さんは、うけ口の顎を掬うように柱時計を見上げ、
「ひどいわ」
と云った。
「八時頃来るから、そうしたらすぐ帰してやるって云った癖して!」
朝の六時頃、いつものとおりに弁当をつめて何の気もなくいざ会社へ出かけようとしているところへ、駒込署だとやって来てそのままひっぱって来てしまったのだそうだ。父親が、偽者かもしれないと心配して警察まで送って来たのだそうだ。
「なんて人馬鹿にしてるんでしょ」
怒って云って、又袂をかき合わせ下を向いた。
昼になっても警視庁などからは来ない。小使いが、ヒジキの入った箱弁当を娘さんの分も床《ゆか》へ置いてゆくと、それを見て急に泣き出した。
自分は、
「泣くのやめなさいよ、ね。あなたの持ってるお弁当を食べたらいいのよ」
娘さんは、やっと蓮根の煮つけが赤漬ショウガとつけ合わせてあるアルミの弁当をひらいたが、ところどころ突ついたきり、湯ものまぬ。
午後第一房の強盗が保護室へうつされ、数日ぶりで自分たちは監房へ入れられた。
娘さんは、帯もしめたままなので段々気がおちつき、
「警察なんて人ばっかり騙《だま》してる!」
そして、ひそめた声に力を入れ、
「ね、一寸! どうしましょう、憎らしいわね。今朝みんな家でやられたのよ。さっき電話で、二十何人とか云ってたわ……皆をやったんだワ。会社じゃストライキのとき犠牲者は出さないって要求を入れときながら、この間っからドンドン新しい人を入れてたんですもの。ぐるなのね。これでクビにするなんて、卑怯だわ!」
会社は、ストライキをやった従業員を職場からだと目だつし、それをきっかけに又他の従業員が結束するとこわいので、各住居地の所轄署を動員して今朝一斉に切りはなして引っぱらせたというのが実際の情勢らしかった。
留置場の弁当では泣き出しながらも会社のやり口は見とおし、
「――一ヵ月ぐらいたってみんなの気がゆるんだ時があぶないって、そ云っていたけれど……全くだわね」
とつくづく考える風であった。やがて坐りなおすように銘仙の膝を動かして娘さんは呟いた。
「でも、私何ていわれたってかまやしない。本当に何も知らないんだから……」
そして私に向い念を押すようにきいた。
「――組合に入ってなければ大丈夫なんでしょ?」
「組合に入ってたって悪かないじゃないの」
しかし、自分は娘さんの調子が心もとなくなって云った。
「……組合に入っていないにしろ、ストライキのときはあなたの要求だってみんなと同じだったからこそ闘ったんだから、今更誰が組合に入ってたなんて余計なことは云いっこなしだわね。いい?」
「そうね」
合点をした。娘さんは××高等女学校出身で、ストライキのときは大衆選挙で交渉委員の一人であったのだそうだ。
今日は駄目だろうと思っていると四時頃やっと労働係が来て娘さんを出した。暫くして今度は自分が高等によび出され、正面に黒板のある警官教室みたいなところを通りがかると、沢山並んでいる床几の一つに娘さんがうなだれて浅く腰かけ、わきに大島の折目だった着物を着た小商人風の父親が落着かなげにそっぽを向きながらよそ行きらしく敷島をふかしている。
父と娘とがそれぞれ別の思いにふけっていた様子が留置場へ戻ってからもありありと見え、自分は警察と家族制度というものに就て深く憎悪をもって感じた。
留置場ではそろそろ寝仕度にかかろうという時刻、特高が呼出したと思ったら、中川が来ている。当直だけのこっているガランとした高等係室の奥の入口のところに膝を組んでかけ、煙草をふかしていたが、自分が緒のゆるいアンペラ草履をはいて入って行くなり、
「――どウしたね」
尖った鬼歯を現してにやにやしながら顔を見た。つづけて、
「いよいよ二三年だよ」
自分はまだ椅子にもかけていない。メリンスの小布団のついた椅子にかけながら、(主任の椅子の小布団は羽織裏の羽二重だが、他の連中の小布団は一様にメリンスなのだ)
「何なんです?」
と云った。
「書いてるじゃないか」
「何を?」
「――非合法出版物へ書いてるじゃないか」
「知らない」
「だァって」
中川はさも確信ありげに顎でしゃくうように笑って、
「現に君から原稿を貰った人間があるんだから仕様がないじゃないか」
「……そりゃ今の世の中には、いろんな種類の月給を貰っている奴があるんだから、そんなことを云う人間があるかもしれない」
蒼い中川の顔が変った。
「そりゃどういう意味だ」
「…………」
「とにかく、君達の同
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