朝になった。一番奥のところに昨夜入れられて来た若い女が、頬ぺたを濡手拭で押え、房さり髪を切った体をちぢめるようにして起き上っている。布団を畳む時、女給が、
「あのし[#「し」に傍点]と、ひどいけがしてんのよ」
といやらしそうにこっそり云って、せっせと臭い布団を抱え出した。蒼ざめた細面で立っている全体の物ごしで、すぐ左翼の運動に関係ある人と感じられる。
「けが?」
「…………」
合点する。傍へよって見て、これはひどい。思わず口をついて出た。
「やられたの?」
合点をし、微《かすか》な笑いを切なそうな眼の中に泛べた。白っぽい浴衣の胸元、前と、血がほとばしってついているのであった。
「――どうだね」
よって来る看守に向い、その人はやっと舌を動かして、
「医者よんで下さい」
と要求した。
「化膿しちゃうわ。……歯ぐきと頬っぺたの肉がすっかり剥《はが》れちゃってるんだもの」
「……詰らんもの呑んだりするからえげ[#「えげ」に傍点]ねんだ」
「――医者よんで下さい。ね」
「話して見よう」
薄手な素足でこっちへ来て坐りながら、
「下剤かけるかしら」
やや心配気に訊いた。私も小声で、
「何のんだの」
「銀紙のかたまり。……私呑みゃしないってがんばってるんだけど」
第二房へ入れられた男の同志と昨夜十二時頃仕事をすましていざ寝ようとしているとこへ、ドカドカと四五人土足で侵入して来た。その女の同志はハッとして何かを口へ入れてしまったと見ると、彼等は一時に折り重り、殴る蹴る。間に、一人がステッキを口へ突込んで吐かせようと、我武者羅《がむしゃら》にこじ廻したのだそうだ。
「今市電が立ちかけてるのよ、残念だわ」
留置場の入口が開く毎に、立ってそっちの方を見た。
「きっと職場でも引っこぬきが始ってる」
市電では、一月に広尾の罷業を東交の篠田、山下等に売られてから全線納まらず「非常時」政策に抗して動揺しているのであった。
果して、昼ごろ髪をきっちり分けた車掌服の若い男が二人入って来た。一人が看守に住所姓名を云っている間に、他の一人がこっちにチラリと流眄《ながしめ》をくれ、何か合図をした。女の同志は濡手拭で頬を押えたまま金網へすりついて立っている。新たに来た二人は別々の監房へ入れられた。
「くやしいわ、二人とも×××車庫で、しっかりしてる人だのに」
その日留置場内の人数は割合
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