役所風なヴァリエーションを感ずる。表通りは固めて、裏はふつうという。――
 書籍の※[#丸付き公、109−18]を原稿料によってきめるとき、現象的にみれば、高い原稿料を基準にするほど企業上有利であろうから、もしかすれば一般の原稿料はあがる、ということになるかもしれない。けれども、そうして高い本が出ると本屋との関係にかかわっているばかりでなく、文学の世界にじかにかかわって来ている。作家の実感にかかわって来ている。そして、日本に、民主的な文学ということをいうならば、その文学の問題にかかわっているのである。
 日本の近代史は、思えば、畳まれた提灯のようだと思う。ヨーロッパが三百年五百年とかかってその一輪、一区切りずつ動いて来たものが、短く明治以来の八十年にたたみこまれてしまっている。畳みめのせんさくがこの頃やっとはじめられて、ひだの深さの間に近代文学の自我、主体の確立その他の問題が詮議されている。一方に、こうして、先ず用紙割当のための民主的な委員会を作ることは考えずに、原価基準風に、原稿料基準の※[#丸付き公、110−7]書籍をこしらえようとするような文化の非自立性が進行している。しかもこの現象は、探求されている日本文学史上のあらゆる近代性確立の問題の根蔕において繋がっているのであって、買うのはどういう人々だろう。荷風、潤一郎は昨今では闇屋の作家である。と云われている言葉がある。新聞には三千五百円の句集ということが話題にされているけれども、この間の晩、三省堂の店頭に据えられたマイクは、あんなに書籍払底を訴えていた。それを訴える声々は、どれもみんな若かった。その声よりも稚い国民学校の子供たち、絵本のほしい子供たち、その子たちはアメリカの子供がたべても美味しいミカン、という奇妙な唱歌をうたって、アメリカから送られたきれいな本を三越の展覧会でごらんなさい、と教えられている。国民学校や中等学校は教科書が絶対に足らない。それは、そうなる。一冊三千五百円の教科書はないから。よしんば、親はその句集を買っても、子供の教科書は、人間の成長に入用な教科書だから、儲けがきまっているから、ない。文学の生活とその本の出版ということに、こういう現実はみんなかかわって来ている。
 昔、北原白秋が羊皮にサファイアやルビーをちりばめた豪華版の詩集を出す広告をしたことがあった。実現したかしなかったのか知らな
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