りしまれ、公徳心を発揮せよ、と云われたのですが、そのききめは、どの位のものでしたろう。

 これまで、日本のすべての人は、食べるということは、自分の力で、云わばめいめいの分相当に解決してゆくべき「わたくしのこと」として教えこまれ、習慣づけられて来ました。とくに、そのやりくりは、主婦の責任という風に考えられました。人間が、どう食べているか、ということが、一つの社会にとって重大な問題であるという、公の立場から考える習慣はもっていません。そう考えるのは、社会主義のものの考えかたであるとして、むしろ取締られて来ました。

 食物の問題を、この社会にとっての公の問題としてとりあげれば、処罰されかねなかった習慣の中で、物が無くなったからと云って、どうして急に、その解決だけを、公の方法に立ち、社会全体の規模から、解決してゆこうという気持になれるでしょう。本来は、公ごとであるべき、食べることの問題を、こっそりとして、侘しい「私ごと」、女の台所の中のこととして来た、公私さかさまな習慣が、今日のところまで食糧事情を悪化させて来た一つの動機でさえあるようです。

 目下の日本で、最も切迫した公の問題は、食糧危機をどう突破するかということですが、代議士たちの大多数は、これに対してどういう態度をとっているでしょうか。つい先頃の総選挙のとき、三合配給などを公約した候補者について、選挙が終ってからすぐ、新聞社が、三合配給の公約をどうするか、という題目で質問しました。すると、三合配給の公約はしない、現在二合一勺を確保すると云っただけだという答や、「俺は知らんよ」と、まことに鷹揚な首領の返事や「それは落選候補の公約であった」という名回答もありました。

 日比谷の放送討論会などの席上では、大変賑やかに食糧事情対策が論ぜられます。野草のたべかたについての講義――云いかえれば、私たち日本の人間が、どうしたらもっと山羊に近くなるか、とでも云うようなお話まで堂々とされます。これは公の席で、公の議論としてされているのです。

 もし、今日の食糧事情が、真に公の問題としてとりあげられているならば、政府はどうして土地問題の解決というような、根本の、公の方法から、徹底させてゆかないのでしょう。一人一人の財布ではもう背負い切れない負担である「わたくしの方法」買出しに打開策をまかせてみたり、又おどろいてやめさせたりばか
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング