合には、時を移さず用を果す静かな、家畜のような生活が、彼女の日々を満たした。歿《な》くなった母親はおっかさんと呼んだのに、今度の母は却って叮嚀《ていねい》におかあさんと呼ぶ、その理由だけが、おもんの、父にも知らさない心の秘密なのであった。
笑うことの少い、細そりした娘として、おもんはやがて十七になった。
その年の春、彼女は不図したことから、父の真吉の知人の紹介で、或る山の手の屋敷に行儀見習いに上ることになった。
六十を越した老夫人の対手をし、おもんはそこで三年の間、倦《う》みも飽きもせず、解《ほぐ》した毛糸を巻き暮した。老夫人は、親戚でも有名な倹約家であった。暖い南の日が流れる隠居所の縁側に、大きな八丈の座布団を出し、洗濯した古靴下を解くのが彼女の日課である。
おもんは、少し離れて傍に坐り、細い頸をうつむけて、くるくるくるくるとそれを玉に巻く。戸棚の箱の中には、いつも握り拳大の玉が二十以上あった。好い加減溜ると、老夫人の故郷である岡山県の或る田舎に送ってやって、丈夫な、雑色の反物に織らせるのである。
二十一になって、初めて汽車というものに乗ったといったら、子供でも吃驚《びっくり》して笑うだろう。けれども、それが、おもんの事実であった。
その屋敷に行って四年目の桜の時、彼女は老夫人の伴をして、生れて初めての汽車旅行をした。久しく故郷に帰らなかった老夫人は、皆に勧められて、西国の花見を思い立ったのである。
刻々に景色の変る途中の有様は、どんなにおもんに珍しいものであったろう。
ここでは毛糸を巻くこともいらない。彼女は、矢張り楽そうに元気な顔付で座席の上に坐っている老夫人を、小さな声で、
「まあ! 大奥様」
と呼びかけては、幼児のように勇み立った。
山が見えたり、林の中を駈け抜けたり、ちらりと何か光ったと思うと、すぐ目の下に海が波をあげている様子! 日が暮れて、月が窓の外を汽車と競争するように飛び初めると、おもんはまるで夢の中にいるような心持になった。このまま、どこか遠い、すっかり世界の違った処へ行ってしまうのではあるまいか。
頼りないような、嬉しいような、胸を擽《くすぐ》る思いが自ら喉元にこみ上げて来るのである。
田舎の家へ着いて見ると、おもんの楽さは一層増した。軟かな春の空気は、ぐんぐん草の芽を育てると一緒に、彼女の心まで膨らすように感じられた。手脚には嘗て知らなかった愉しい活力が漲り、瞳は輝き、天は彼女の上で新しくなったようであった。朝、鏡に向って自分の僅の美しさ愛らしさにでも心附いたのは、このときが初めてなのである。
完く、おもんは、やっと咲いた一本の可憐な花のように見えた。娘の美しさなどに日頃無頓着な老夫人さえ、
「お前は、こっちが合うと見えるね。色が白くおなりだよ」
といった。僅三十時間足らずの汽車の旅行は、見えない力ですっかり彼女を換えた。ひとなら、十六七で覚えるだろう心の晴やかさ、身も魂もすがすがとする清らかな華やかさを、おもんは今になって知ったのである。
全然最初の計画には無かったおもんの縁談が、偶然持上ったのは、丁度この旅行中のことであった。
元、老夫人の実家に出入りしていた者がおもんを見、息子の嫁になってはくれまいかと相談を進めて来たのがそもそもの始まりである。老夫人は、旅先の気軽さで、快よく賛成した。そして、幾分若やいだ親切心で、おもんには教えず、一緒に或る祭り見物に出かけて、先方の息子にそれとなく当人を見せたりした。先の津田という男は、会社の相当な事務員である。身分も決して不釣合とはいわれない。それどころか、彼女の境遇としては又ない良縁として、老夫人は、ことの意外さに怖気《おじけ》づくおもんを励まし、帰京早々両親にそのことを伝えたのである。
この春ふた月は、おもんの一生の春であった。
不図、瑠璃《るり》色に澄み輝いている空を見あげたり、眩ゆいように白い、庭の木蓮の花などを眺めると、何をしていても、彼女は苦しいほど鋭い幸福の予感に襲われることがあった。
夜、枕につくと、先のように張合もない睡りがどんより瞼を圧えることはなくなった。頭の中は千の燭台を灯したように煌《かがや》き、捕えられない種々の思いが、次から次へと舞い交した、寝る時にも、起きる時にも、第一おもんの頭に浮ぶのは、どうぞ継母が、異存なく今度のことを承知してくれるようにという、願いである。
父の真吉は手紙を受とると、早速かけつけて来、涙を泛べて悦んだ。そして、心から、
「これからは、おかげさまで、可哀そうに、こいつの運も開けましょう」
といった。継母の意見には当らず触らずにしていた彼は、老夫人に念を押されると、
「異存のある道理はございません。何、あいつなんか」と、言葉を濁した。
「それはそうともね。娘の仕合になる
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