健介は、まだ酒ののこっている盃をかばいながら、当惑そうに笑った。
「僕はほんとにいけないんですよ。遠慮でも何でもないんだから、どうぞかまわず御自由になすって下さい」
「ほんとですか?」
 小関は、おどけた様子で疑わしそうに、ちろちろ健介とおせいの方とを見較べた。
「うそじゃあありませんのですよ」
 笑いながら、おせいも傍から言葉を添えた。
「ほんとにうちでも不調法なんです」
「……情けないお客様だねえ」
 やがて主人は真面目に詰らなそうな声を出して、歎息した。
「貴方、一杯や二杯は、薬にこそなれ、ちっとも毒になぞなるもんじゃあないんですぜ」
「それはそうでしょうな、だから貴方なんかもそんなに御達者なんでしょう」
 危く機嫌をわるくしそうだった主人は、健介の言葉で、忽ち調子をとり戻した。
「そうですとも! 全くこれのおかげですよ。これさえありゃあ、もう何にもいりません。一昨年のあの人死にの多かった感冒にだって、こちとらはびくともしないんですからね。ええ、ええ。もうこれだけが、私の楽しみです――山際の安さんなんぞは、随分いけるんでしょう?」
 彼等の間には、また新らしく故郷の酒客の噂が上りはじめた。健介は、おふゆを通して、小関の遠縁に当っていた。おふゆの両親が死絶えたので、親類ともいつか疎遠になった小関の一家は、暫く山陰地方にある国へも帰らなかった。今度、健介が、一週間ばかり法事のついでに故郷の様子を見て来たので、彼は、小関のためというより寧ろおふゆのために、おせいを伴《つ》れて訪ねて来たのであった。
 けれども、訪ねて来て見るとおふゆと話す折を、いつも小関の酒機嫌が引さらって行った。やっと今になって故郷の話が持ち出されたので、とかくだまり勝ちだったおふゆは、目に見えて感興を面に現わした。そして、団扇を動かす手も留守にして、それからそれへと、昔の家の模様などを健介に訊きただす。いきおい主人の小関が黙って二人の話を聞かなければならない。――
 おせいは静に立って、三尺の高窓から外を見下した。黒い柳の葉に遮られながら、ちらちらちらちら灯の揺れる狭い往来が直ぐ目の下にある。右手の露路を越した彼方から、シャック、シャック、シャック、シャックと調子のよい機械の音が響いて来た。何か、メリヤス類を織る小工場らしく、窓の一方に体を片よせてそっちを眺めると、手拭をかぶって草履ばきの若
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