の人々が熱心に歌うインターナショナルの歌声で震えた。各国からの代表、歓び勇んでやって来たプロレタリア作家たちの到着だ。みんなは、みんなの母国語で歌った。が、モスクワの初冬の空気をツン裂いて、
「ああインターナショナル」
と歌われたとき、あらゆる国語の差別は消え全く一団の燃える声となって八方に響き渡った。
 第二回革命作家国際会議がモスクワでもたれず、ハリコフ市で行われたのも、五ヵ年計画第三年目のはじめの記念的な出来ごとにふさわしい。ハリコフ市はウクライナ共和国の首府だ。十一月の氷雨がちのモスクワ市よりこの時節にはハリコフ市の方が気候がいいばかりではない。ドンバス炭坑区を近くに持ち、大国営農場、機械工場をもち五ヵ年計画とともにソヴェト同盟の南方地域では屈指の重工業、農業の生産中心地となった。
 ハリコフ市を中心とするウクライナはソヴェト同盟のプロレタリア文学とも縁が深い。ショーロホフの「静かなドン」はドン地方のコサックの階級闘争史だ。フールマノフの「赤色親衛隊」もウクライナ地方が背景だ。映画「大地」はウクライナの豊饒な自然なしには創られなかった。
 美術の方面でもウクライナは多勢の優秀なソヴェト木版画家を出している。一九三〇年の春はウィーンその他でウクライナ美術展覧会をやった。
 このウクライナ地方が革命までどんな扱いをうけていたかと云えば、大ロシアの支配者たちによって半植民地とされていた。ウクライナ地方の自国語で書くことは許されず、軍隊の中でさえ「ハホール」と呼んで侮辱的扱いをうけた。
 社会主義の社会で民族は真の意味で自立し、新しい生産と文化とが結びつきながら高揚し、調和しあうものとして動きはじめている。ハリコフ市はそういう点から一つの新しい民族首都である。ここを選んで国際的な革命作家の会議が行われたことは輝かしい。
 会議は十一月六日から十五日まで続いた。二十二人の資本主義国、植民地、半植民地から革命的作家が集った。
 代表によって各国におけるプロレタリア文学運動についての詳細な報告がされ、批判された。そして、革命的作家は益々切迫するブルジョア経済の行き詰りとともにファッショ化する権力の文化抑圧と如何に闘うべきか。これも亦各国の事情を参照して決議された。日本からは、松山、永田という二人の同志が出席した。
(ハリコフ会議における日本についての決議は『ナップ』一九三
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