ているけれども、いわゆるヨーロッパ的創作方法の実験も、日本の民主革命の過程の現実の中では、模倣の小箱はくだけてしまうものだろう。伊藤整のように、ジェームズ・ジョイスの文学を深く理解した作家が、より若い世代のヨーロッパ文学の手法追随に対してむしろ警告的であるのも注目される。日本では、一九三三年以後の社会と文学の形相があまり非理性的で殺伐であったために、その時期に青年期を経たインテリゲンチャの多くの人が、その清新生活では主として人民戦線のフランスに亡命した形があった。野間宏にしろ、加藤周一にしろ。それらの人たちは、いま日本の民主革命の中にその精神において帰還している。野間宏が、ジイドやヴァレリーの言葉からぬけでて――ヨーロッパ的小説作法(ブルジョア民主主義のアヴァンギャルドの手法)を、日本の[#「日本の」に傍点]民主革命の課題にそった人民の言葉で人民の生活を描こうとしている昨今の試みは、すべての人に期待を抱かせている。彼が一応のスタイルをこわして、ヴァレリーの言葉から、日本庶民の理性の暗い、理性によって処理されない事象と会話の中に突入している生真面目さを、ただ日本語の不馴れな作家の時代錯誤とだけ云いすてる人はないだろう。
民主革命の長い広い過程を思えば、その課題の必然にしたがって文学はますます批評家の好みによって点づけされたり、文学流派の堰によってあちらとこちらとせきわけられるものでもなくなってきつつあると思う。一人の作家が一寸背丈を高くするために、一寸だけ他の誰かをおしつけてよいものでもないと思う。文学は、大いに研究されるべきものとなってきていると思う。歴史の意志をうつす能力としての才能についても、今日科学者の能力が人類の幸福の助けとなるべきものとして評価されていることがまちがいでないならば、どうして文学の才能だけが病的であったり、自己破滅的であったりすることを納得できよう。文学の才能だけは、アルコールの中毒くさかったり、病理的な非情のするどさでもてはやされたりする畸型的な面白がられかたは、文学そのものの恥だと思う。若い作家三島由紀夫の才能の豊かさ、するどさが一九四九年の概括の中にふれられていた。この能才な青年作家は、おそらくもうすでに、彼の才能のするどさ、みずぎわだったあざやかさというものは、いってみれば彼の才能の刃《は》ですっぱり切ることのできる種類のものしか切
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