しもそれに参加した一人一人の労働者の階級的人間性をゆたかに高めたことにはならなかったということも観察される。したがって、いま書きたいことは、むしろもっと以前のおそらくは戦時中のことであり、階級としての闘争の文学はいま書かなければならないとは分っているけれども、実感のうちにまだ十分発酵する時間を経ていないという事情もおこった。
 民主主義文学運動全体として、この政治的性急さによってかき乱され、不安にさせられてがたついている状態をどう整理して、前進すべきであろうか。一九四九年の民主主義文学の運動は、このための自己批判や勉学や不快な圧迫との抵抗のために各人が各様に異常な精力を費すこととなった。
 文学における政治の優位性という理解は、正しく具体的にされる必要に迫られた。なぜならば、政治が文学に優位するという社会文化現象の基盤についての理解は、政治活動にしたがっているある種のものが、文化・文学運動に何かの命令する権能をもっていることを意味するかのような場合を生じたから。そして、他の一面では、現代の社会感情と文学のおもしろくてまた危険でもある現象として一つの事実が発見された。それは文学における政治の優位という正常な理解に反対して、プロレタリア文学時代から、「主人もちの文学」とののしって来た人が、きょう民主主義の立場に立つ特定の作家に悪評を加えようとするときには、全く、誤って理解された政治の優位性[#「政治の優位性」に傍点]の発動による非現実的であり、非文学的でもある評言の断片か、ききづたえかを、そのまま自分の文章の中にとってよりどころとするという奇妙な現象がおこったことである。文学における政治の優位、別のことばで云えば、文学の階級性の確認とその発展の方向についての革命的認識――を否定する作家・評論家が、こんにちでは、民主陣営にある文学と政治の優位性に関する歪曲を利用して、民主主義文学運動を非難するという現実が見られる。

          六

 日本の民主主義文学運動の方針やその具体的な成果が、日本の[#「日本の」に傍点]民主革命の現実の課題との関連で判断され、評価されることがないなら、その判断や評価はそもそも何であろう。
 毛沢東の発言は、日本の民主陣営にこのんで引用され、文学運動についてもしばしば引かれるのであるが、きょうの国際関係で、中国文献の自由な翻訳権が日本の人
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