々人ぎらいになった。宛然《さながら》、傷ついた獣が洞にかくれて傷を舐め癒すように、彼は、自分の心とさし向いになり、何かの道を見出そうとする。
 僅か十六七日の間に、スーラーブの相貌はひどく変った。突つめた老けた、心を労す表情が口元から去らなくなった。憂鬱に近い挙止の間々に時とすると、燻《くす》ぶる焔のように激しい閃きがちらつくことがある。
 宝石売が去ったのは、丁度四月の下旬であった。ツランの天候の一番定まりない時である。朝のうち薔薇色に照って、石畳や柱の縁を清げに耀かす日光は、午すぎると、俄にさっとかげって来る。ざわざわ、ざわざわ、不安に西北風が灌木や樹々の梢を戦がせると見るうちに、空は、一面煤色雲で覆われる。広場で荷つけをしているものなどが、急な天候の変化に愕きあわてる暇もない。凄い稲妻が総毛だった天地に閃いたかと思うと、劇しい霙が、寒く横なぐりに降って来る。
 それも一時で、やや和いだ風に乗り、のこりの雫をふり撒きながら黒雲が彼方の山巓に、軽く小さく去ると、後には、洗いあげたようにすがすがしい夕陽が濡燦めき、小鳥の囀る自然を、ぱっと楽しく照りつける。ぞろぞろと雨やどりの軒下から出て来て、再び仕事を取り上げる男達の談笑の声、驢馬が鼻あらしを吹き、身ぶるいをする度に鳴る鈴や、カタカタいう馬具の音などが入り混り、如何にも生活のよろこびを以て聞える。夕暮は、柔かい銀鼠色に、天地が溶けるかと思われる。夜はまた、それにも増して美しい。スーラーブは、近頃、幾晩か、霊気のような夜に浸て更した。
 今晩も、歩廊の拱から丁度斜め上に、北極星、大熊星が、キラキラ不思議な天の眼のように瞬いている。月はない。夜の闇は、高く、広く、無限に拡がってうす青い星や黄がかったおびただしい星は、穏密な一種の律をもって互に明滅するようだ。

        十七

 灯かげのない拱に佇んでいるうちに、スーラーブは、心が星にでも届くように、澄み、確かになって来るのを覚えた。
 天から来る微かな光に照されていると、瞳がなれて、一様な闇の裡でも、木の葉の戦ぎまで見えて来るそのように、スーラーブは、混沌とした動揺の中から、次第に、自分の心持、結局の行方をはっきり覚り、考え出した。快い冷気の中に、今夜は特別な魔力が籠っているのか。彼は、今迄自分が苦しみ悩んでいたのは、ただ、とうに解っていたことを、自分の心持だ
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