害でさえあるという事実を批判しきれなかった。
その討論の時期に、伊藤整も東京新聞の文芸欄で発言した。肉体小説、中間文学に対する彼のもの言いは、非常に機智的であった。否定するかとみれば、一部の肯定もあり、さりながら単純な肯定一本で貫かれているという見解でもなかった。伊藤整を、そのように複雑なもの云いにさせたのは何であったろう。彼にも、過去のリアリズム否定と、狭い日常性に封じこまれて来た、日本の私小説への反逆がある。彼の知性が、よりひろく、強靭であろうと欲している、その角度から少くとも、私小説的な要素を否定している意味での中間小説に対して、単純な断定をさけさせたのであったと考えられる。
昨年十二月号『群像』の月評座談会で、林房雄は、宇野浩二の書いた「文学者御前会議」(文学者が天皇に会ったときの記録)にふれ、宇野という作家の私小説的作家性をやっつけた。人も知る天皇主義者である林房雄は、宇野浩二というその人なりのリアリストが、その人なりのリアリズムで天皇とその周囲の雰囲気をなみの人間[#「なみの人間」に傍点]の目やすから観察し、描き出したのを、文学のために生活そのものをたねにする私小説作家気質と罵った。吉田健一の「英国文学論」を引いて、イギリスでのように文学は日常生活のふち飾りであるべきだと、林のこんにち的内容をもった「大人の文学」論をのべている。そして、同座の中野好夫に向って、あなたもこれから批評家としてやって行くためにはこの点だけはよく心得ておきなさい、といった意味を、きわめて高びしゃに申しわたしている。批評家中野好夫は、林の僭越さにむっとしたからこそ沈黙をもって答えたのだったろう。しかし、読者としては、中野好夫が沈黙で答えたもう一つの理由も感じとられなくはなかった。中野好夫の場合にも、前にふれた二人の作家と同じように、私小説と私小説的リアリズムを否定している自分が自覚されている。その自覚におさえられて宇野のリアリズムは別の問題として林のこんにちの「大人の文学」論の本質に迫ることをしなかった。
昨年は一般に批評の沈滞した年としてかえりみられている。民主主義文学運動が沈滞して、批評の沈滞がひきおこされた点からだけ見ようとしているひともあったようだ。しかし、批評が無力であった根本の原因は、ある人のいうように、民主主義文学も「たかがしれた」からだけではない。戦後、すべて
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