このことにこそ、人民の要求のごまかすことのできない力が示された。トルーマンが公約した民主的政策が実現されるか、それともブルジョア政党らしいジェスチュアに終るかということに対して注目し監視しているのは、アメリカの民衆ばかりではないのである。
 このたびの大統領選挙が世界の視聴を集めたのは、デューイとトルーマンとのたたかいにおいて、アメリカ民衆の民主的な意志と、世界の平和的善意、理性とがどう反映するか、そこが見ものであるからだった。重大さはそのことにあったにもかかわらず、日本では天下りに共和党デューイ個人の当選確実があんなにも注入され宣伝された。このことも日本のわたしたちにとっては忘れられない。

 一九四六年の二月ごろであったろうか。婦人民主クラブが第一回の創立大会をひらいた。会場である共立講堂へニュースのライトが輝いたらしく、派手な空気は、わたしをおどろかした。婦人民主クラブの成立に関係をもった幾人かの婦人が話をした。加藤シズエ夫人もその一人だった。もうそのころ立候補がきまっていた夫人は、婦人と政治的自覚について話し、彼女の見たアメリカの選挙を手本とした。民主的な議会政治では議席を多くしめる政党が政策を実現できる。どんなに立派な政策をもっている政党でも議員が少数では、何も実現しない。彼女がアメリカにいたとき行われた選挙で、ある一人の学者が中立で立候補し、その人格と政策は多くの人の信頼をあつめていたが、彼女の周囲のアメリカ人はその人に投票しなかった。何故かときいたらば、議会内での少数では無意味という根拠から、民主党か共和党かへ投票する、という答えだった。夫人の結論は、民主的政治の実際というものはこういうものだから、日本の婦人はよく自覚して、議会で多数を占める可能性のある政党の候補者に投票すべきであるというのだった。
 かたわらできいていて、わたしの心におさえがたい思いがわいた。果して婦人民主クラブは大きいだろうか。婦人民主クラブというところにあつまる婦人たちの民主的な自覚が大きいと云えるだろうか。既成の大きい[#「大きい」に傍点]力・多数の力ということを強調するならば、小さい婦人民主クラブが存在する意義はないし、わたしたち一人一人のうちにある小さな善意、小さい誠実の社会的な価値とその機能は期待されない。子供が小さいから、よく実利を発揮しないからと云って育てない親がある
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