るはずの民主精神が、かげをもっている理由の第一は、一種独特な日本の心理過剰の現状ではないだろうか。
 明治からの歴史に、私たちは市民社会の経験をもたなかった。悲しい火花のような自由民権思想の短い閃きをもったまま、それが空から消されたあとは、半封建のうすくらがりの低迷のうちに、自我を模索し、この自然と社会との見かたに科学のよりどころを発見しようとしてきた。われらの故国のおくれた資本主義経済の事情は、時間の上で、西欧諸国から三百年おくれていたというに止らなかった。やすいものを早く、どっさりこしらえて、できるだけあっちこっちに売りさばかなければならず、その原料仕入れに気も狂わんばかりあせり立って、あらゆる国際間の利害にからんで、戦争ばかりしつづけてきた。
 西欧精神と日本の近代精神を比較して、日本の現代精神の皮相性、浅薄な模倣性を憎悪する人がある。それを厭うこころもちは、すべての思慮ある人の心のうちに、強く存在しているけれども、その厭わしさを、とりあげてよくよく調べてみれば、日本人の精神の本質がそういうものであるというよりは、近代の国際資本の競争におくれて立ちまじった日本の資本主義支配者たち
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