判廷で行われている。「白樺」の人々は、この事件の扱いかたで、権力者が期待したとおりの影響を蒙った。彼らは、当時の日本をいっぱいにしていたやぼな社会的・階級的ごたごたからは目をそらして、世界人類の能力の輝やかしい可能とそのおどろくべき発露に関心を集めた。これは、日本の知性の歴史にとって忘られない明るさ、つよい憧憬、わが心はこの地球を抱く思いをさせたのであったが、その胸のふくらみにくらべて脚はよわく、かつ光栄ある頭蓋骨をのせるべき頸っ骨も案外によわかった。日本のいく久しい封建社会の歴史にもたらされて、日本の知性は、強靭な知的探求力とその理づめな権威力をもつより、いつも感性的である。その日本の感性的な知性が西欧のルネッサンスおよびそれ以後の人間開花の美に驚異したのが「白樺」の基調であった。
繋がれているものにとって、翔ぶという思いの切なさは、いかばかりだろう。低くあらしめられて、思いの鬱屈している精神にとって、高まり伸び達しようとする翹望は、どんなに激情をゆするだろう。昭和初頭から、それがわずか十年たらずの短い間に八つ裂にされてしまったまでの日本の左翼運動とその思想が、今日かえりみて、多くの人々に未熟であり、機械的であり、模倣であり、主観的であったと批判される根本の原因は、一方に日本が、どんなに封建的な専制支配の下におかれていたかという事実を見ずには説明されないことである。左翼の思想や行動は、ついこの間までは非合法とされていた。このことは、思想そのものが非合法であり、行動そのものが非合法の本質をもっているということとはまったく異っている。人間の思想と行動とが、ほんとうに非合法であるといえるのは、それが健全な人間の理性の判定する合理性に反したときだけである。一人の将軍が戦争の時流に乗じたあまり、諸君は地球の引力を否定した武器を発明すべきである、と呼号したりした場合、その言動は人間的非合法なのである。封建の専制支配を堅めるために作られた日本の治安維持法は、制定されるとき、山本宣治の血を流したばかりではすまなかった。はじめから理において勝つべき根拠を失っていて、三宅正太郎によってさえも悪法として警戒されていた治安維持法は、過去十数年間の日本から、知性を殺戮しつくしたのであった。そのあまりの無法さは、直接その刃の下におかれた人々の正気を狂わせたし、その光景全般の恐ろしさから、すべての知識人、勤労者、農民の精神と判断と発言とを萎縮させた。徳川時代のとおり、ご無理ごもっともと、ばつを合わせつつ、今日私たちの面している物質と精神の破壊にまで追われてきたのであった。
この時期、人々はできるだけ自分というものを目立たせないように努力した。個性や性格をきわだたせることさえおそれた。そして、低く低くと身をかがめたのであったが、このひどい屈伏が、一九三〇年以後におこったところに、今日の文化にとって重大な問題がひそんでいる。山の彼方の空を眺め、山の頂をはるかに通じる一筋の道を眺めたものにとって、窓をしめ、地球の円さは村境できれているように思いこみ、この村ばかりの優秀を誇るというのは、不自然で息苦しく愚劣にたえがたいしまつであった。徳川時代の民が土下座したとき、その埃のふかい土は素朴で、けっして現代のドライヴ・ウェイをもたず、全波ラジオをもたなかった。封建生活そのものとしての統一があり、封建の枠の内でつつましいおのれは分裂していなかった。自我の分裂の苦悩を封建人は知らないで生き、そして死んだのであった。最近十数年の間、日本の自覚あるすべての人々は、この深刻な自我の分裂に苦悩してきたし、人間理性への信頼を毒されてきた。精神を低く屈しさせられれば屈しるほど、その息づきのせわしさが自覚される三分の魂をもって、自身のうちに疼《うず》く内部反抗を自覚した。一分低くなれば一分だけ、五分ひくめられればさらに五分だけ、自分の心にばかり聴える抗議の叫びの痛切さを愛し、その真実にたより、それによって、屍とされてもなお死なざる人間としての自己を自分に知ろうとしてきたのであった。
日本の権力の半封建な野蛮さが、人間性をどれほど歪め終せたかという現実を、こまかに眺めるとき、こころは燃え立つばかりである。なぜならば、人間性をそのように畸型な傴僂《せむし》にした権力は、よしんば急に崩壊したとしても、けっしてそれと同じ急テンポで、人間性に加えられた抑圧の痕跡、その傴僂は癒されないものとして残されているからである。それのみか、一年の時を経た昨今、彼らは呆然自失から立ちなおり、きわめて速力を出して、この佝僂《くる》病が人間性の上にのこされているうちに、まだわたしたちの精神が十分強壮、暢達なものと恢復しきらないうちに、その歪みを正常化するような社会事情を準備し、客観のレンズを奇妙な凹凸鏡にす
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