きさつの間に、愛の堅忍と誠実とが試みにかけられつつある。親の権威よりはるかに強く猛々しい社会不合理に面しているのである。
 その国の民主主義が社会主義の段階まで到達しているところ、そして、非条理なナチズムの専制に献身して闘ってそれを撃破しえたソヴェト同盟の文化が、シェクスピアをとりあげる場合、それはまたおのずから異っているであろう。成人したとき、人々はゆとりのあるこころもちで、自分たちの少年時代、青年時代を回想し、その自然発生する人間性がさまざまに現わされた経過を、微笑して顧み、語る。社会連帯のつよさでかえって個性が護られ、家庭や母性が確立し、勤労による財産の蓄積さえ安定されている社会で、はるかとおいルネッサンス時代に、人間が自分の人間性をどのように発揮しはじめたかということを舞台で眺めるのは、さぞや興味深いことであろう。それは、明かに今日にあっても同感される昔噺の一つである。「オセロ」を、嫉妬からデスデモーナを殺す悲劇の主人公とは見ず、相互に与えられていた信頼を裏切られた心の破局と理解することもわかる。そういう今日の共感に交えてデスデモーナのオセロにたいする封建的な屈従と畏怖とが、大切な愛をおどおどとさせ、才覚とほんとうの正直さとを失わせ、一枚のハンカチーフを種にイヤゴーの奸策につけ入らせた。そのルネッサンス女性の暗愚さは、ソヴェトの若い観客の目からけっして見落されてはいないに違いない。
 大人になりきった人は、少年から青年期の無思慮な思い出にたいしてさえも微笑むのだけれども、いままさに十七歳であり、少年と青年とのあいなかばした成長の過程にあるものが、直情径行に願うことは何であろう。それは、ひたすらに一人前の青年であろうとすることである。日本の民主の段階はここにある。それであらゆる面で大人になることを欲してこそ、自然である。幼年と成年、老年と自身との間に、鋭い歴史的自覚の線を感じ、それをおしすすめ、新民主主義という自身の興味つきない課題を完遂して、世界の中に一人前になろうと欲してこそ、自然なのである。

 燦く石にさえ、宝石として一つ一つにさまざまの名がつけられている。人間が、驚歎すべき生命の消費に耐え狂乱的に見えるまでに、その理性を試しつつ進展させて来た社会の歴史の一こま一こまに、独特な価値、その美しさがないということはありえない。わたしたちの精神が自身面してい
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