考えてみよう。人間社会の進展の原理が社会科学の立場から解明され、社会主義の社会、共産主義の原理が語られるとき、われわれの合理性はそれを理解し、支持しながら、そこに、なにかみたされない思いをもつというのはなぜであろうか。その間にもっとなにか瑞々しいものを、人間らしいものを、と求めるというのはどうしてだろうか。今日、荒らされ、放りだされた私たちの心情は、それほど美しさ、慰藉、愛と詩とにかつえているのは実際である。ほんとうに私たちは号令に飽きた。よくもあしくも強制にはこりた。
 だが、そもそも私たち人間がギリシアの時代からもちつたえ展開させ、神話よりついに科学として確立させたこの社会についての学問、社会科学とその究明よりもたらされる将来の構成への展望とは、人間情熱のどういう面とかかわりあったことなのであろうか。これは一片の乾いた思弁であり、闘志のつよいある種の人間たちだけの道具なのだろうか。すべての学問は、よろこびを求めてやまない人間心情を源として、そこから湧いて出ている。幸福であろうとする意欲は、人類が幸福という言葉の符号も、文字としての記号も持たなかったときから存在しつづけている。人類が社会を構成しはじめてから、それについての認識をもちはじめて以来、より幸福に、より快適に生きようとする希望から築きあげてきた成果の見事さについて、くりかえすのはほとんど愚な業である。一方において、芸術と自然科学とを幾世代にわたって花咲かせてきた人間が、社会認識の成熟する諸条件がそなわりはじめた十八世紀末から、社会を学問的探究の対象とし始めた。資本主義社会が西欧で確立した十九世紀に、その基盤としての生産関係を究明して、その矛盾とその合則の発展の過程を、共産主義社会の出現にまで追究した人間精神を、私たちは精美なものとして感じることは不可能だろうか。地上のあらゆる生物のうちで、自分たちの生き死する社会についての科学をもっているのは人間ばかりである。芸術を創り、それを愛し、宝とする能力は人類にしかないのと同じに。そこに、人間のよろこびはありえないだろうか。
 まじめに科学の仕事にたずさわり、専門的にまた世俗的にあらゆる難関とたたかっている今日の日本の科学者たちから見れば、おそらくあまり安易通俗に、全篇が物語として扱われているに相違ない映画、パストゥールを主人公とした「科学者の道」や「エールリッヒ
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