リー・ウーマンとしての暮しにおいても。
女の仕事と職業とが性能の上からも一致し、正当な社会評価を求め得る気風が一般化されてこそ、女の生活は豊富になり、明るい力強さをもつと思います。当面生活の心配などなく、永年多額の金を修業につかうことのできたごく僅の女のひとたちだけが、いわゆる仕事から職業へ有利に移ることができるのだとしたら、私たち大多数の女にとって悲しい残念な事実ではないでしょうか。金のあるひとだけが金を儲けて得ているという今日の冷酷な原則がここにも形をかえてのぞいて来ているのです。
インテリゲンツィアの若い女が勤労者として生活しなければならない必要は、昨今急激に増してきています。しかも、必要によって捕えた職業は常にそのひとの心から好きな仕事でないことが多い。女として職場での条件にあき足りぬことも多い。小学卒業したまま製糸工場の寄宿舎へつれて来られた小さい女の子たちは自分たちのおかれている悪事情さえ意識できない程度であるが、女学校以上専門学校出の職業婦人は、この点では敏感であり、人間としての自尊心もある。社会事情はその人間的なものを苦しめるし、傷ける。よろこんで働ける場合が本当に少い。そこから、職業は生活のため、人間としての心持のはけどころとして他に何か、と別に仕事を目で追い求めてゆくのでしょう。だが、彼女たちの経済力と時間と精力とが、はたしてどの程度に自由な利用のためにのこされているでしょうか。ここに痛切な疑問があると思います。体力的に見て、二種類の活動に精力を分けられる程度の疲労だけですむ職業は、少くとも今日職業と名のつく職業にはないと思う。職業をもつ女は、いわばもっと腹をすえなければならないのではないでしょうか。昔の立身出世の意味でなくもっと自身の境遇、その職業にうちこんで、職業そのものの条件をいくらかでも人間的にましなものにしてゆくために腰がすわらなければならないと思います。
女のひとが仕事と職業とを分けて考えがちになる気持の根拠には、複雑な形で今日の社会の事情が反映しているのですが、私はそれであればあるだけ、女がますます仕事と職業との一致確立を可能ならせる方向に共同の努力を向けてゆかなければならないと思うのです。境遇の事情で、いわゆる仕事として技術を身につけているひとも、これまでのように、私は職業にしてはいないのだからと、離れた心持でなく、やはりその仕事の実質で、女全体の社会にとい得る価値を高めるように押してゆくべきでしょう。女の職業と仕事との分裂した評価が女の側からさえ行われている間、仕事そのものの内容や評価も、自然客観的には低められ、歪み無気力なディレッタンティズムの中にかがまってしまうことになると思います。[#地付き]〔一九三七年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
1937(昭和12)年7月夏季特輯号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング