の様式で最高の能率をあげ得るのだろうか。同時に、都会の工場が、何故こうも平和産業に転換することがのろいのであろう。これ迄は変則なインフレ景気で工員たちも遊んで暮せる金があったかもしれないが、現在、人々は遊んで餓えたいか、真面目に働いて安心して食いたいか、二つに一つの答えに迫られて来ていると思う。東京に六十万の失業者があって、その人々は闇商売の面白さに求職していないと報じられている。しかし、人民の購買力は、無限ではない。刻々買いかねる方向を辿っている。腕をもっている人たち、働けば拵えられる人々が、坐って飢えるのを待っているだろうとは思われない。拵えたものが農村で入用だのに、その代りとして農産物を出したくないという非常識なものがあろうとも思えない。では、その二つの極を、どういう仕組みで繋いだら、一番総ての人の満足に近づくことが出来るだろうか。そういう風に考えを展開させてゆくことは、人間が、社会生活の裡に生き、互の協働によって生活を保って来た歴史的な習慣から、ごく自然な当り前な道である。そして、食物の問題についてもそういう風に考えてゆくことが、日本の婦人にだけは出来ないのだと、誰が信じ得よう。日本婦人は、辛苦の負いてとして、永い社会の歴史の間につよさを誇って来た。その、「やりくり」に通暁した配慮を、少しひろげ、更にも少し広くして、自分たちの国としての「やりくり」にも智慧と良心とを発揮することが、どうして出来ないと云えるだろう。
政治という言葉を、本来の生き生きとした人間の言葉に云い直すと、それは、社会のきりまわし法という表現になる。一家を、男ばかりできりまわせるものならば、妻を喪った男やもめに、蛆が湧くという川柳は出来なかった筈であると思う。
婦人が、天成の直観で、不具な形に出来上って人民の重荷であった過去の日本の「政治」に、自分たちをあてはめかねているのは、面白いことだと思う。婦人の責任は、身に合いかねる過去の社会きりまわしの形を、娘として、妻として、母としての自分たちの柔かい力のこもった肉体の勢で、器用に綻《ほころ》ばし、程よく直してゆくところに在る。よりよく生きてゆこうとする人間の最も貴重な希望が肯定されたとき、その実現のために自分から動き出そうと思わないほど無気力な男も女もない。この頃の日本の交通機関のおそろしい混乱と、そこで敢闘する婦人たちの姿をみたとき、こう迄がんばる日本の婦人が、やがてこの混乱の根本を改革するエネルギーとして自身を見出し、又その方向に真摯な努力をつづける偽りない自身の政党を選別するときが来ることを思わずにはいられないのである。
[#地付き]〔一九四六年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「新社会」
1946(昭和21)年1月創刊号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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