思想があらわに出ていなければならぬ。思想と文章との一致、これが現代文章の唯一の準則である」それだから「今の文章はいにしえのような美辞麗句でなく」「作家の表現しようと考える対象の性質から規定されて来る。」ところで、この著者の理解によると現代の作家は「社会の人々が普通にはもっていないような感情、又は持っていても表現して見せる必要のないような感情については、なんらの表現法がなく、作家がこれを表現するに非常な不便を感じなければならない。しかも作家はこのような事象の表現にしか、その表現意欲を感じなくなっているのである。
 なぜなら、作家は、心理の叙述を自己のもっとも生甲斐ある創作対象とするようになっており、心理のうちでも心のもつ反省の能力をあらわしたいと念じているのであるから。自己の心を幾重にも幾重にも反省する。ある行為をする自分を反省し、その反省を行う自己を反省するというように、心の内部へ内部へとほり下げて行く、その過程の叙述が現代作家のもっとも興味をもってアタックしたいと考える対象である」と規定せられている。そのために「最近の文章論の要求は」「自然主義的な文章をいかにして脱却するかというところに根本的な出発点をおかれ」ていると説かれているのである。
 ブルジョア文化史のある一定段階の現象として過去三、四年来の日本の作家の間に著しく現れた文章道[#「文章道」に傍点]への関心・熱中にともなわれ、心理学者がその分析・整理・理論づけに着手されるようになった一例として、私は、この著者の努力に冷淡であり得ないのである。が、はたして、この著者によって示された現代文章学発生の必然性の説明が、作家[#「作家」に傍点]という包括的な言葉どおりの意味で、あらゆる作家の創作的欲求を代表しているであろうか? ゴーリキイが作家を呼んで「心の技師」といっている。心のいきさつを描きたいことは全作家のひとしき願望ではあるが、著書もそれが社会性乏しくきわめて個人的なものであることを認めている反省的心理叙述を、横光利一のみでなく、私も一人の作家として同じく念願していると推定されるとすれば、それは現実の事情からはなはだ遠いのである。
 心理学者は、たとえば、著者自身にふれている重要な事実――現代の一部の作家が心の内部へ内部へと掘り下げてゆく過程の叙述をのみ書きたがっているという現象について、それがいかなる心理的理由によるものか、それを科学的実験的に闡明してはいけないのだろうか。
「ユリシーズ」が、著者の如き分析力によってふわけされた上、昔は普通のスタイルで書いたジェームス・ジョイスが、なぜ欧州大戦後、人間意識の流れをこういう風に扱い出したか、その点を心理学的に究明することは、意味ないことであろうか。著者は、谷崎潤一郎が初期には具体的感覚的文章を書いたが最近は抽象的、概念的文章になったことを指し、偉大なゲーテもさような道ゆきをたどったといっている。六十八歳で歿したゴーリキイが晩年においては、最も概念的であるべき論説においてさえ、ますます具体性と輝やかしい感性とをもった文章を書き、世界の文化に尽したという全く対蹠的な一事実を、心理学者は何と分析するであろうか。私はそのような心理学者の出現をまつこと、実に切なるものがあるのである。[#地付き]〔一九三六年七月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「都新聞」
   1936(昭和11)年7月3〜6日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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