菊人形
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鏑木《かぶらぎ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やっちゃば[#「やっちゃば」に傍点]通りまでできた。
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 田端の高台からずうっとおりて来て、うちのある本郷の高台へのぼるまでの間は、田圃だった。その田圃の、田端よりの方に一筋の小川が流れていた。関東の田圃を流れる小川らしく、流れのふちには幾株かの榛の木が生えていた。二間ばかりもあるかと思われるひろさで流れている水は澄んでいて流れの底に、流れにそってなびいている青い水草が生えているのや、白い瀬戸ものの破片が沈んでいるのや、瀬戸ひき鍋の底のぬけたのが半分泥に埋まっているのなどが岸のところから見えていた。大根のとれる季節になると、その川のあっちこっちで積あげた大根を洗っていた。川ふちの榛の木と木の間に繩がはってあって、何かの葉っぱが干されていたこともある。わたしたち三人の子供たちは、その川の名を知らなかった。
 田圃のなかへ来ると、名も知れない一筋の流れとなるその小川をたどって、くねくねと細い道を遠く町の中へ入って行くと、工場のようなところへ出て、それから急に人通りのかなりある狭い通りへ出た。そこには古い石の橋がかかっていた。そして石橋の柱に藍染川とかかれていた。その橋から先はもう小川について行くことができなかった。空の雲を水の面にうつして流れている水は町へ入ったそのあたりから左右を石崖にたたまれ、その崖上の藪かげ、竹垣の下をどこへか行っていた。わたしたち子供は、田圃のなかから川について町へ出て来るから、いつも流れをさかのぼっていたわけだった。不忍池から源を発している小川だったのだろう。
 藍染川と母たちがよんでいたその石橋のところが、ちょうど、谷中と本郷の境のようになっていた。動物園から帰って来るとき、谷中のお寺の多いだらだら坂を下りて、惰力のついた足どりでその石橋をわたると、暫く平地で、もう一つ団子坂をのぼらなければ林町の通りへ来られなかった。
 藍染川と団子坂との間の右側に、「菊見せんべい」の大きな店があった。ひろい板じきの店さきに、ガラスのついた「せんべい」のケースがずらりと並んでいた。ケースの上に菊の花を刷って、菊見せんべいと、べいの二つの字を万葉がなで印刷したり、紙袋が大小順よくつられている。菊見せんべいを買いにゆくと、店番が、吊ってある紙袋を一つとって、ふっとふくらまし、一度に五枚ずつ数えてその中に入れ、へい、とわたしてよこした。ふくらんで軽い大きい紙袋をうけとったとき、おいしい塩せんべいの匂いがした。ときには、紙袋をもったとき、手にあったかさのつたわって来るほど焼きたてだった。紙袋があったかいとき、子供はつれの大人を見て、笑った。
 それよりも何よりも、菊見せんべいを買いにゆくときには三人の子供がついてゆきたがる別の理由があった。「菊見せんべい」の店先に立つと、店の板じきの奥に向いあって坐ってせんべいをやいている職人たちの動作がすっかり見えた。火気ぬきのブリキの小屋根の下っている下に、石の蒲焼用のこんろを大きくしたようなものにいつも火がかっかとおこっていた。それをさしはさんで両側に三人ずつ若い男があぐらをかいて坐っていて、一人が数本ずつうけもっている鉄のせんべい焼道具を、絶えず火の上でひっくるかえしているのだった。せんべい焼の黒い鉄の道具は柄が長くて、その長い柄をつかんで、左手、右手で敏捷にひっくりかえしつづけるのは、力がいる仕事らしかった。火気からはなれることないその仕事で、早くから白いちぢみのシャツ一枚に、魚屋のはいていたような白い短い股引をきる職人たちは、鉢巻なんかして右、左、右、左、と「せんべい焼」道具をひっくりかえしてゆくとき、あぐらをかいて坐っている上体をひどくゆすぶった。自然につく調子で、体をゆすぶりながら、かえしてゆくとき、鉄きゅうの上で鉄のせんべい焼道具がガチャンと鳴った。
 店さきにたって、うっとりとその作業に見とれている子供には、職人たちの身ぶりと音との面白さがこの上なかった。いくら見ていても面白く、飽きなかった。さあ、もう帰りましょう。そう云われても、子供たちは職人から目をはなさず上の空で、もっと、とねばった。子供たちは、いつも随分長い間、立って見ているのだったが、職人同士がその間に喋るのを見たことがなかった。職人はみんないそがしそうだった。体のふりかた、道具をひっくりかえす威勢のいい敏捷な音、どれもが、こげるぞ、どっこい。こがすな、どっこい。と調子をとっているようだった。雨のふる日には、菊見せんべいの店の乾いた醤油のかんばしい匂いが一層きわだった。

 菊見せんべいへ行くというとき、子供たちはもう一つのひそかな冒険で顔を見合わせた。
 菊見せんべいの手前に、こまごまと軒を並べている小商人の店と店との庇あわいの一つの露路をはいってゆくと、その裏は案外からりと開いていて、二間、三間ぐらいの一軒だてがいくつかあった。その右のはずれの一軒が、おゆきばあやの住居だった。
 小さい根下りの丸髷に結って、帯をいつもひっかけにしめているおゆきは、その家で縫物をしていた。おゆきが針箱やたち板を出しかけている部屋のそとに濡れ縁があって、ちょいとした空地に盆栽棚がつくられていた。西日のさしこむ軒に竹すだれがかかり、風鈴の赤い短冊がゆれていて、なめたようにきれいな狭い台所口があいていると、裏の田圃が見えた。おゆきのうちには、猫がいた。
 子供たちは、菊見せんべいへ行くとき、一緒に来る大人が母でさえなければ、おゆきのうちへよることが出来た。きょうは駄目ですよ、お母様がまっすぐ帰れとおっしゃいましたよ、と抗議が出ても、ちょっと! ほんとにちょっと! と、わたしは露路を曲った。おゆきの家と、そこに住んでいる、おゆきと浅吉とは、面白かった。
 根下りの丸髷に結って、長煙管でタバコをのむおゆきは、不思議にうす黒い顔をしてやせていた。喉がどうかしたように、少しかすれた声で、小さい子供たちに、おや、いらっしゃいまし、と云った。そういう声で、おゆきは赤門の門番をしている夫の浅吉のことを、あっさん、あっさんと云って話した。あっさんがね、お前さん、こういうんだよ、いけすかないったらありゃしないじゃないか、ねえ、などと笑いながら、ついて来た女中と喋っているおゆきの話しかたが、六つ七つの女の子の興味をそそった。うちでは、おゆきのように話すものがなかった。あっさんとおゆきがいるだけで、子供のいない家というのも珍しかった。
 浅吉は、昔、祖父の俥をひいていたのだそうだ。祖父が田舎へひっこむについて、大学の赤門の門番になった。わたしたちの知ったとき、もう浅吉の木菟のようなふくらんだ頬っぺたには白く光る不精髭があったし、おゆきは、ばあやさんと呼ばれていた。
「ねえ、おゆきばあや、あっさんは赤門にいるの」
 縫物をしているおゆきのわきにころがって小さい女の子は質問した。
「そうですよ」
 おゆきは、縫っていた糸を歯できって、つぎのしるしにまち針をうちながら、
「あっさんは赤門。きのうも赤門、きょうも赤門てね」
「赤門でなにしてるの?」
「腰かけて、うちわでもつかってるんでしょうよ」
「ふーん」
 どうも不思議だった。いつか赤門をとおったとき、ここに浅吉がいるはずだよ、と母が、入ってゆく右手の門番のところをちょっとのぞいた。けれども浅吉はいなかった。いないね、と云ってそのまま行く母について歩きながら、わたしには赤門にいなかった浅吉の印象が刻まれた。浅吉が赤門にいるということに、わけのわからないところがあった。
 浅吉はいくらかこわくもあった。お盆のとき浅吉とおゆきとは連立ってお中元に来た。こまかいたて縞のすきとおる着物にうすい羽織を着た浅吉は、白扇をパチリ、パチリ鳴らしながらあんまり物を云わず、笑いもせず、木菟のような眼の丸い頬ぺたのふくらんだ顔で坐っている。そのすこし斜うしろにぺたりと薄い膝で坐った根下り丸髷にひっかけ帯のおゆきが、浅吉をあおいでやるのか、母へ風をやるのか分らない団扇のつかいかたをしながら、
「ほんとに、うちのあっさんたら、正直なばっかりで一刻もんだもんですからねえ、つい二三日前もね、奥様」
という工合で、いつまでも喋った。そういう日には、浅吉とおゆきとだけ別のところで一つお膳でお酒をのんだ。その仕度はおゆきが自分でした。さあ、あっさん、折角だから御馳走におなりよ。そう云って、二人だけでお酒をのんでいるとき、おゆきと浅吉は何か低い声で話しあった。おゆきはお酒がまわって来ると、
「おまはんもっといけるはずじゃないか」
と云いながら浅吉に自分の酌をさせた。
 また、おゆきの御飯のたべかたも、真似手がなかった。おかずがあっても、おしまいの一膳はお茶づけにして、ほんとにサラサラと流しこむのだったが、おいしそうにひとしきりたべてさてお香のものへ移るというとき、おゆきはきまってリズミカルに動かしていたお箸を、そのリズムのまま軽く茶碗のふちへ当てて一つ小さく鳴らした。銀の箸ででもあったら、その箸のひとあては、茶碗のふちで涼しい音でも立てるのであったろうが、雑用の厚手な茶碗と木の箸で、その音はカチとカタの間にきこえた。それでも、おゆきのお茶づけには独特のリズムがあり、菊見せんべいの職人の体のふりようとせんべい焼の道具をひっくりかえす音に通じあう面白さがあるのだった。
 おゆきの身についていて、東京の山の手に育つ子供の心には、きわめてもの珍しくうつったいくつもの癖が、くるわの習慣であったことが分ったのは、わたしが十七八になって、歌舞伎芝居をみるようになってからだった。梅幸のお富が舞台の上で、ひっかけ帯で横にすわりながらおゆきがそういうときとよく似た声の調子でおまはんと云ったとき、すべてが氷解した。母が、子供たちをおゆきのところへ行かせたがらなかった母らしい潔癖と偏見の意味もわかった。もうその頃は、おゆきは、別のところに引越して、養子の世話になっていた。
 更に何年かたったとき、何かの雑誌で「ねぶか」という落語をよんだ。落語をこのむ江戸庶民の感覚で、奥女中あがりを女房にした長屋の男の困却を諧謔の主題にしたものだった。奥女中だった女が、長屋ものの女房になってもまだ勿体ぶったお女中言葉をつかっている。そのみのない横柄ぶりが武士大名への諷刺として可笑しく笑わせるのだった。その「ねぶか」のなかに、長屋の男が新しく来る女房と、取り膳でお茶づけをたべるたのしさを空想して、俺がザラザラのガアサガアサとたべると、女房はさぞやさしくチンチロリンのサアラサアラとたべるだろうという描写があった。そこをよんで、わたしはすぐおゆきを思い出した。おゆきのお茶づけとあの箸を思い出した。
 おゆきが団子坂の下に住んでいたのは明治四十年より前のことだった。おゆきの住居や習慣は、樋口一葉が「にごりえ」などでかいた雰囲気の中のものだった。そして、鏑木《かぶらぎ》清方の插画の風情のものだった。そういうことがわかったのは、ゆきのおまはんの由来を理解したよりもあとのことだし、「ねぶか」よりもあとのことであった。
 父方の祖母、母方の祖母が、わたしの幼い時代に徳川時代から明治初年への物語を色こく刻みこませた人々であった。いまわたしたちが封建社会の崩壊期として理解している幕末と、中途半端な開化期として理解している明治初年についてのさまざまの物語りをもって。おゆきは、二人の祖母のだれも示さなかったやりかたで、明治初年の東京の庶民ぐらしの気分をつたえたたった一人の女だった。
 六つ七つのわたしは、竹すだれのかかった軒ちかく縫いものをしているおゆきのわきにころがっておゆきの家についていて、自分の家のとはちがう匂いを感じ、西日を顔にうけながらチンチンチンチンと、何かをたたいているような音をきいていた。その音は、前のうちの中からきこえた。
「あれ何の音?」
「さあ……おおかた錺屋《かざりや》さんで何かやっているんでしょうよ」
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