れていた。その服を着て、海老茶色のラシャで底も白フェルトのクツをはいた二十九歳の母が、柔かい鍔びろ経木帽に水色カンレイシャの飾りのついたのをかぶって俥にのって出かけたとき、三人の子供たちと家のものとは、美しさを驚歎してその洋服姿を見送った。若い母は、ロンドンにいる良人のもとへその洋装姿の写真をおくった。はりぬきの岩に腰をかけ、フェルト靴の先を可愛く白レースと思われた服の裾からのぞかせ、水色カンレイシャで飾られた帽子のつばを傾けて、両手でもった一輪のバラの花を見ている母の写真。それは明治の幻燈のようになつかしく美しく素朴である。
けれどもロンドンでそれをうけとった三十七八の父からは、母が想像していたのとはまるで反対の手紙が来た。日英同盟していた小さい日本が、ロシアに勝ったということで、在留民の少いロンドンで父の受けた特別待遇は著しかったらしい。ノギ・トウゴーの名が建築家である若い父のまわりで鳴りひびいた。エドワード七世即位式の道すじに座席が与えられた。そういう父から、母へ来たのはインド洋をこしての叱責だった。あのお前が洋服だと思っている服は西洋の女のネマキであること。はいているクツは人目に見せるべきものでない室内靴であること。ああいう写真は二度とよこしてくれるな。恥しい、ということであった。
六つの娘は、母があんなに立派できれいだったのに、もう決して二度とその洋服を着ようとしないのを残念に思った。
「ああちゃん、どうして洋服きないの?」
箪笥の一番下のひき出しに、三井呉服店とかいたボール箱に入ったままあるのを見て、娘がきいた。
「あれはお父様が西洋のねまきだってさ」
そう云って母は青々と木の茂った庭へ目をやったきりだった。その庭の草むしりを、母は上の二人の子供あいてに自分でやっているのだった。ねまきはいいものでないということは、子供の心にもわかって、だまった。
その頃急な団子坂の左右に菊人形の小屋がかかった。馬が足をすべらすほど傾斜のきつい、せまい団子坂の三分の一ばかり下って、人々の足もとがいくらか楽になったところの左側に一二軒、右側に三軒ばかり菊人形の店が出来た。葭簀ばりの入口に、台があって、角力の出方のように派手なたっつけ袴、大紋つきの男が、サーいらっしゃい! いらっしゃい! 当方は名代の(何々とその店の名を呼んで)三段がえし、旅順口はステッセル将軍と乃木大将と会見の場、サア只今! 只今! せり上り活人形大喝采一の谷はふたば軍記! 店々で呼び合う声と広告旗、絵看板、楽隊の響で、せまい団子坂はさわぎと菊の花でつまった煙突のようだった。白と黒の市松模様の油障子を天井にして、色とりどりの菊の花の着物をきせられた活人形が、芳しくしめっぽい花の香りと、人形のにかわくささを場内に漲らせ、拍子木につれてギーとまわる廻り舞台のよこに、これも出方姿の口上がいて、拍子木の片方でそっちを指しながら、右にひかえましたる乃木将軍というような説明をした。ノギ将軍はすべての写真にあるような顔をした人形で、黄菊・白菊の服を着ていた。ステッセル将軍は、ただ碧い眼に赤い髭で、赤っぽい小菊の服を着せられていた。
往来からすぐ見えるところには、ありふれた動かない人形が飾ってあって、葭簀の奥をのぞくと廻り舞台の庇はじなどが見え、人を奥へと誘った。一の谷などでは、馬も菊で体をこしらえられていた。
十月下旬から十一月にかけて、団子坂の通りは菊人形で混雑し、菊見せんべいも、団子坂の菊人形につながった一つの東京名物なわけだった。菊の花の造花や、薄でこしらえた赤い耳の木菟を売るみやげやが、団子坂上からやっちゃば[#「やっちゃば」に傍点]通りまでできた。
菊人形が国技館で開かれるようになってからは、見にゆく人の層も変ったらしいけれども、団子坂の菊人形と云われたことは、上野へ文展を見にゆく種類の人にも、そう縁の遠くない秋の行事の一つだったのではなかろうか。千駄木町に住んでいた漱石の作品のどこかに菊見があったし、団子坂のすぐ上に住んでいた森鴎外の観潮楼へは、菊人形の楽隊の音が響いたにちがいない。
幼いわたしにとって菊人形は面白さとうす気味わるさとのまじりあった見ものだった。場内にみなぎる菊の花のきつい匂いになじみにくく、活人形の顔や手足のかちかちした肌色と着せられている菊の花びらのやわらかく水っぽい感じの対照も妙だった。母方の祖母が浅草の花屋敷へつれて行ってみせてくれたあやつり人形の骨よせと似た気味わるさが菊人形のどこかにあるのだった。
戦争ものでない菊人形と云えば、あのどっさりの菊人形の見世ものの中で何があったろう。常盤御前があった。小督《こごう》があった。袈裟御前もあった。一九〇五年に、団子坂の菊人形はそういうものばかりを見せていた。小さい女の子は気味わる
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